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Posted by TI-DA at

2012年10月05日

上り口説(ぬぶいくどぅち)を往く

「上り口説(ぬぶいくどぅち)を往く」
いまから5年前に、休日を利用して取材した記事。

最近、生まれ故郷・大道(うふどう)に行く用があったので
思い出したまで。いつか雑誌に載せたいと思ふ。



1. 旅ぬ出で立ち観音堂 
千手観音伏し拝で黄金酌とて立ち別る

(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ 
くがにしゃくとぅてぃたちわかる)


2.袖に降る露押し払ひ 大道松原
歩みゆく行けば八幡崇元寺

(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく 
ゆきばはちまんすーぎーじ)


3. 美栄地高橋うち渡て 
袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋

(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ 
ゆくんかゐるんなかぬはし)


4. 沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣
袖と袖とに露涙

(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ 
すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)


5. 船の綱疾く解くと 舟子勇みて
真帆引けば風や真艫に午未

(ふにぬとぅむづぃなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてまふふぃきば 
かじやまとぅむにうんまふぃつぃじ)


6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城 
残波岬
も後に見て

(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃ まにくおうじやみーぐすぃく 
ざんぱみさちんあとぅにみて)


7. 伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば
七島渡中も灘安く

(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしば
しちととぅなかんなだやしく)


8. 立ちゅる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で
(エーイ) 
 あれに見ゆるは御開門 富士に見まがふ桜島

(たちゅるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ 
ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)




古典舞踊曲・上り口説 (ぬぶいくどぅち)は首里を出発して那覇の港から船に乗り、奄美諸島、トカラ列島を通り過ぎて薩摩へと旅をするありさまを謡っている。那覇から鹿児島港までは、現在は大型客船でおよそ20時間の旅。1時間ちょっとの飛行機に比べればだいぶ時間がかかるのだが、昔は風が順調に吹いたとしても3日以上かかったという。途中には伊平屋沖合など波荒く潮流の早い難所が待ちかまえているから命がけの旅。突然の嵐に遭うこともしばしば。出発にあたって首里観音堂で旅の無事を祈り、親類縁者と別れの杯を交わしていった。




首里観音堂(しゅりかんのんどう)


正式の寺号は慈眼院。万歳嶺とよぶ丘にあって視界が開け海が臨める。渡航無事を祈願する寺として上り口説では「旅ぬ出立観音堂、千手観音伏し拝でぃ…」と謡われる。十八夜拝み(旧暦1・5・9月)には沖縄各地から人々が訪れる。安置されている守り本尊は千手観音(子)・虚空蔵菩薩(丑・寅)・勢至菩薩(午)・普賢菩薩(辰・巳)で、家内安泰・旅行安全・健康などを祈願する。観自在・観世音といわれるように、すべての人を観、救う働きが自由自在な菩薩。

1. 旅ぬ出で立ち観音堂 
千手観音伏し拝で黄金酌とて立ち別る

(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ 
くがにしゃくとぅてぃたちわかる)


2.袖に降る露押し払ひ 大道松原
歩みゆく行けば八幡崇元寺

(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく 
ゆきばはちまんすーぎーじ)




大道松原(うふどーまつぃばら)は、現都ホテル付近から松川坂下〜大道まで続く松並木の呼称である。現沖縄ホテル裏手に大道毛(うふどーもう・だいどうやま)と呼ばれる丘があるが(実は大道で生まれ育った私の少年時代の格好の遊び場)、又吉道路沿いに建つ那覇市の案内版には1501年尚真王は円覚寺修理用の材木としてこの丘に松の苗1万株を植えさせ「指帰(サシカエシ)松尾の碑文」を建立した、とある。王国時代後期、見事な松並木が続いていたことが想像できるが、廃藩置県・琉球処分(1989年)後、松並木は切り倒され、1945年の沖縄戦で碑文も消滅、戦前戦後の宅地開発などで道路の形も道筋も大きく変わった。また明治〜大正期に軽便鉄道の線路の盛土用に大道毛の一部を削りとったという形跡がある。いずれにしても美しい「大道松原」は影も形もなく復元しようという話もない。




わずかに緑地が残る大道毛から松川坂下を臨む




沖縄ホテルの東・道路沿いに建つ「大道松原」の案内版





戦後沖縄経済の偉人・宮城仁四郎(故人)邸は大道毛の中腹にある







八幡は安里八幡宮である。


安里八幡宮は1466年、喜界島が朝貢しないので尚徳王(第一尚氏七代)は遠征に向かう途中安里村を通りかかったとき鳥が飛んでいて、王は「わが兵に利あらば、この鳥を射落とせしめよ」と念じて矢を放ったところ鳥は射落とされた。のちに喜界島を平定したので鳥を射落とした地に八幡宮を建て、隣接して寺を構え神徳寺と名づけた。




八幡宮のすぐ下方にある 八幡神徳寺


八幡大菩薩とは、日本で古くから信仰されてきた八幡信仰に、神仏混交として大菩薩の号が付けられた。平安初期に祭神の応神天皇・玉依姫・神功皇后が定められたといわれ平家物語にも出てくる「南無八幡大菩薩」のように護国・武の神の象徴。

廃藩置県後の神仏分離策で仏像・仏画など取り払われたのか、宮は荒れはて昭和初期には雨漏りのするまま放置されていた。戦後は安里地域の有志によって守られ続け現在の宮に建て替えられたのは平成8年。例祭は旧暦9月9日。大道小学校と泊小学校の通学境目。近くには稲嶺一郎(りゅうせき初代会長・元県知事稲嶺恵一氏の父)邸もある。





今も残る崇元寺石門


崇元寺(そうげんじ)は、沖縄県那覇市泊にあった臨済宗の寺で、1527年第二尚王統・尚円によっ創建されたとされている。沖縄戦により焼失・全壊したが、三連アーチ型の石門が現在でも残っており、1972年の本土復帰と同時に国の重要文化財・歴史的建造物に指定された。

かつて尚円が安里大主と組んで自らの手で追放した(滅ぼした)第一尚氏王統の霊を弔う寺であったとの説もある。場所は長虹堤の玄関口(終着点)、今も昔も川と道路の分岐点。

駐車場のないドライブスルーだけの観光スポットは、石門以外はなにもない。本堂のあったところは空き地か公園か区別がつかないほどシンプルな空間。復帰後、車の通行区分が右から左に変わってからはバス待つ人はめっきり減った。


裏の木々と石門のコラボはなかなか趣がある
晩秋なのに木の葉が元気!





3. 美栄地高橋うち渡て 
袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋

(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ ゆくんかゐるんなかぬはし)



美栄地高橋(みいじたかはし)は 美栄橋

首里を出発した「上り口説一行」は、崇元寺から長虹堤を通り美栄橋へ向かう。途中に十貫瀬(じっかんじ)があり、袖を連ねて当時の高橋を渡りいよいよ那覇の港へと近づく。





十貫瀬は元ダイナハ・今ジュンク堂の向かい路地から入る
思うに、いまも昔も那覇人(なふぁんちゅ)はよく歩く



第一尚氏五代王・ 尚金福の時代(1450〜1453年)当時、那覇と首里の間は海で隔てられて、冊封使来琉の際には、那覇の港から船を並べて橋代わりとするなど不便であった。1451年尚金福が国相・ 懐機(かいき)に命じて約1キロの海中道路を開通させた。

長虹堤(ちょうこうてい)と呼ばれる現代版レインボーブリッジである。現在の崇元寺橋から松山一丁目あたりまで続いていた。これにより首里と那覇の往き来が便利になり、さらに次第に長虹堤周辺に土砂がたまり、逐次埋め立てられるうちに現国際通り〜久茂地付近の那覇ができあがっていく。




葛飾北斎『琉球八景』の1枚『長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)』より


モノレール「美栄橋駅」前にある古い石碑がある。新修美栄橋碑という。この碑の由来を、現地にあった説明文から見てみる。


新修美栄橋碑(美栄橋駅前に建つ)


「いにしえの那覇は浮島と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便だった。そこで尚金福王は、1452(景泰3)年、冊封使を迎えるにあたり、国相・ 懐機(かいき)に命じて崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目タマキ屋米店駐車場付近)に至る約1kmの「長虹堤」という海中道路を築かせた。「長虹堤」には3つの橋が架けられたといわれ、美栄橋はそのうちの一つ。那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまう。そのため、川を浚(さら)え、橋を架け替えることになり、1735(康正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工した」

新修美栄橋碑にはその経緯を記してある。その後美栄橋は1892年(明治25年)に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし碑だけは原形を留め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。






4. 沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣
袖と袖とに露涙

(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)


5. 船の綱疾く解くと 舟子勇みて
真帆引けば風や真艫に午未

(ふにぬとぅむづぃなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてまふふぃきば かじやまとぅむにうんまふぃつぃじ)





那覇市前島と泊の間に架かる中之橋
じつはあの「中之橋」ではない!??

泊〜前島
地名からしてもこの辺りは海なのか島なのか曖昧な土地


上り口説(ぬぶいくどぅち)の中之橋は泊前島の中之橋ではない
長いこと泊の中之橋だとカン違いしていた。

順路からいっても美栄橋から現中之橋バス停付近へ後戻りするのは疑問に思っていた。那覇市経済文化部歴史資料室学芸員の外間政明氏の「しまたてぃNO.13」(PDF版)の中で、
「渡地(現通堂町付近)から三重城との間に5つの橋(「上り口説」で有名な中之橋など)を架け、「西の海」(現西2 〜 3 丁目付近、明治20 〜 30 年代にかけ埋立)と港内の潮の流れをはかった」と説明されている。謎は解けた。
 中之橋は通堂〜三重城間にあったのだ!


さらに上り口説で「沖の側まで」の沖は沖之寺の通称であることが知られている。

沖之寺は正式には臨海寺という。臨海寺は現ロワジールホテル近く、三重城の途中にあったらしい。明治41年那覇築港のため住吉町に移った。戦後、三重城付近は埋め立てられて港湾の倉庫などが建つ。昭和42年に安謝新港近く曙1丁目の現在地に再建された。

中之橋と沖之寺(臨海寺)…二つとも昔の場所には存在しない。上り口説の中之橋は現西町あたりで陸になり、臨海寺は曙1丁目へ移転した。それでは泊1丁目と前島1丁目間に架けられている中之橋はなんなのか? 疑問は尽きない。


前島1丁目にかかる現在の中之橋は上り口説の中之橋ではない
中之橋は那覇港の近く通堂(とんどー)〜三重城(みいぐしく)間にあったらしい



三重城近くにあった「沖」=沖の寺(臨海寺)は現在の那覇市曙に移っている



6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城 
残波岬
も後に見て

(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃ まにくおうじやみーぐすぃく ざんぱみさちんあとぅにみて)


三重城(みーぐすぃく)




ロワジールホテル裏の駐車場先から上がる三重城


三重城(みーぐすぃく)は那覇港の入り口に作られた台場で、倭寇に対する防御のために16世紀に作られた城塞だったらしい。反対側にも屋良座森城が作られ三重城と対をなしている。後に、船旅の乗客を見送る場所となり見送る人々は三重城までいって船が通過するのを見ながら扇で招くしぐさをしながら無事の帰還を祈った。

航海の無事を祈る拝所(ウガンジュ)も作られている。琉球舞踊「花風(はなふう)」の舞台にもなり、那覇の港を船出する愛しい人を見送る女性の姿が描かれた。当時は、海上に伸びる長い突堤の先端にあり、今の通堂町あたりから三重城に至るまで海中道路のようになっていた。






残波岬 あとに見て

 




7. 伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば
 七島渡中も灘安く

(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしばしちととぅなかんなだやしく)



伊平屋島沖合 運天港を出てまもなく船は揺れる。
静かに見える海だが、うねりがあって大きく揺れる。



新城喜一画集『失われた沖縄風景』より「伊平屋沖(イビヤドー)」イメージ画



伊是名島 ここを過ぎると奄美諸島


昔の船は南風を受けなければヤマトには行けません。
だから夏場だったんでしょう。夏といえば台風、気象衛星もレーダーも
ないからいつ台風が来るか分からない。ベテラン海人のカン頼りか。
あとは運を天に任すだけのタイタニック!(-_-;)




8. 立ちゅる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) 
 あれに見ゆるは御開門 富士に見まがふ桜島

(たちゅるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)



硫黄島




………




 御開門を越えると 桜島


新城喜一画集『失われた沖縄風景』より



「上り口説を往く」終了しました。


10分で鹿児島に着いた気分です(^o^;)



自身が小・中・高校と歩んできた道筋と重なる楽しい旅でした。


ここまで(斜めにでも)読んでありがとう、お疲れさまです。



  

Posted by 砂川よしひろ at 10:50Comments(2) 上り口説を往く

2009年11月23日

上り口説(ぬぶいくどぅち)まとめ

「上り口説(ぬぶいくどぅち)を往く」
いまから2年前に、休日を利用して取材した記事。
小出しに分けて掲載しているのを一気によめるように
まとめてみました。 


 ※さらに写真調整するなど後から手をくわえました~☆



1. 旅ぬ出で立ち観音堂 
千手観音伏し拝で黄金酌とて立ち別る

(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ 
くがにしゃくとぅてぃたちわかる)


2.袖に降る露押し払ひ 大道松原
歩みゆく行けば八幡崇元寺

(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく 
ゆきばはちまんすーぎーじ)


3. 美栄地高橋うち渡て 
袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋

(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ 
ゆくんかゐるんなかぬはし)


4. 沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣
袖と袖とに露涙

(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ 
すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)


5. 船の綱疾く解くと 舟子勇みて
真帆引けば風や真艫に午未

(ふにぬとぅむづぃなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてまふふぃきば 
かじやまとぅむにうんまふぃつぃじ)


6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城 
残波岬
も後に見て

(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃ まにくおうじやみーぐすぃく 
ざんぱみさちんあとぅにみて)


7. 伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば
七島渡中も灘安く

(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしば
しちととぅなかんなだやしく)


8. 立ちゅる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で
(エーイ) 
 あれに見ゆるは御開門 富士に見まがふ桜島

(たちゅるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ 
ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)




古典舞踊曲・上り口説 (ぬぶいくどぅち)は首里を出発して那覇の港から船に乗り、奄美諸島、トカラ列島を通り過ぎて薩摩へと旅をするありさまを謡っている。那覇から鹿児島港までは、現在は大型客船でおよそ20時間の旅。1時間ちょっとの飛行機に比べればだいぶ時間がかかるのだが、昔は風が順調に吹いたとしても3日以上かかったという。途中には伊平屋沖合など波荒く潮流の早い難所が待ちかまえているから命がけの旅。突然の嵐に遭うこともしばしば。出発にあたって首里観音堂で旅の無事を祈り、親類縁者と別れの杯を交わしていった。




首里観音堂(しゅりかんのんどう)


正式の寺号は慈眼院。万歳嶺とよぶ丘にあって視界が開け海が臨める。渡航無事を祈願する寺として上り口説では「旅ぬ出立観音堂、千手観音伏し拝でぃ…」と謡われる。十八夜拝み(旧暦1・5・9月)には沖縄各地から人々が訪れる。安置されている守り本尊は千手観音(子)・虚空蔵菩薩(丑・寅)・勢至菩薩(午)・普賢菩薩(辰・巳)で、家内安泰・旅行安全・健康などを祈願する。観自在・観世音といわれるように、すべての人を観、救う働きが自由自在な菩薩。

1. 旅ぬ出で立ち観音堂 
千手観音伏し拝で黄金酌とて立ち別る

(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ 
くがにしゃくとぅてぃたちわかる)


2.袖に降る露押し払ひ 大道松原
歩みゆく行けば八幡崇元寺

(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく 
ゆきばはちまんすーぎーじ)




大道松原(うふどーまつぃばら)は、現都ホテル付近から松川坂下〜大道まで続く松並木の呼称である。現沖縄ホテル裏手に大道毛(うふどーもう・だいどうやま)と呼ばれる丘があるが(実は大道で生まれ育った私の少年時代の格好の遊び場)、又吉道路沿いに建つ那覇市の案内版には1501年尚真王は円覚寺修理用の材木としてこの丘に松の苗1万株を植えさせ「指帰(サシカエシ)松尾の碑文」を建立した、とある。王国時代後期、見事な松並木が続いていたことが想像できるが、廃藩置県・琉球処分(1989年)後、松並木は切り倒され、1945年の沖縄戦で碑文も消滅、戦前戦後の宅地開発などで道路の形も道筋も大きく変わった。また明治〜大正期に軽便鉄道の線路の盛土用に大道毛の一部を削りとったという形跡がある。いずれにしても美しい「大道松原」は影も形もなく復元しようという話もない。




わずかに緑地が残る大道毛から松川坂下を臨む




沖縄ホテルの東・道路沿いに建つ「大道松原」の案内版





戦後沖縄経済の偉人・宮城仁四郎(故人)邸は大道毛の中腹にある







八幡は安里八幡宮である。


安里八幡宮は1466年、喜界島が朝貢しないので尚徳王(第一尚氏七代)は遠征に向かう途中安里村を通りかかったとき鳥が飛んでいて、王は「わが兵に利あらば、この鳥を射落とせしめよ」と念じて矢を放ったところ鳥は射落とされた。のちに喜界島を平定したので鳥を射落とした地に八幡宮を建て、隣接して寺を構え神徳寺と名づけた。




八幡宮のすぐ下方にある 八幡神徳寺


八幡大菩薩とは、日本で古くから信仰されてきた八幡信仰に、神仏混交として大菩薩の号が付けられた。平安初期に祭神の応神天皇・玉依姫・神功皇后が定められたといわれ平家物語にも出てくる「南無八幡大菩薩」のように護国・武の神の象徴。

廃藩置県後の神仏分離策で仏像・仏画など取り払われたのか、宮は荒れはて昭和初期には雨漏りのするまま放置されていた。戦後は安里地域の有志によって守られ続け現在の宮に建て替えられたのは平成8年。例祭は旧暦9月9日。大道小学校と泊小学校の通学境目。近くには稲嶺一郎(りゅうせき初代会長・元県知事稲嶺恵一氏の父)邸もある。





今も残る崇元寺石門


崇元寺(そうげんじ)は、沖縄県那覇市泊にあった臨済宗の寺で、1527年第二尚王統・尚円によっ創建されたとされている。沖縄戦により焼失・全壊したが、三連アーチ型の石門が現在でも残っており、1972年の本土復帰と同時に国の重要文化財・歴史的建造物に指定された。

かつて尚円が安里大主と組んで自らの手で追放した(滅ぼした)第一尚氏王統の霊を弔う寺であったとの説もある。場所は長虹堤の玄関口(終着点)、今も昔も川と道路の分岐点。

駐車場のないドライブスルーだけの観光スポットは、石門以外はなにもない。本堂のあったところは空き地か公園か区別がつかないほどシンプルな空間。復帰後、車の通行区分が右から左に変わってからはバス待つ人はめっきり減った。


裏の木々と石門のコラボはなかなか趣がある
晩秋なのに木の葉が元気!





3. 美栄地高橋うち渡て 
袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋

(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ ゆくんかゐるんなかぬはし)



美栄地高橋(みいじたかはし)は 美栄橋

首里を出発した「上り口説一行」は、崇元寺から長虹堤を通り美栄橋へ向かう。途中に十貫瀬(じっかんじ)があり、袖を連ねて当時の高橋を渡りいよいよ那覇の港へと近づく。





十貫瀬は元ダイナハ・今ジュンク堂の向かい路地から入る
思うに、いまも昔も那覇人(なふぁんちゅ)はよく歩く



第一尚氏五代王・ 尚金福の時代(1450〜1453年)当時、那覇と首里の間は海で隔てられて、冊封使来琉の際には、那覇の港から船を並べて橋代わりとするなど不便であった。1451年尚金福が国相・ 懐機(かいき)に命じて約1キロの海中道路を開通させた。

長虹堤(ちょうこうてい)と呼ばれる現代版レインボーブリッジである。現在の崇元寺橋から松山一丁目あたりまで続いていた。これにより首里と那覇の往き来が便利になり、さらに次第に長虹堤周辺に土砂がたまり、逐次埋め立てられるうちに現国際通り〜久茂地付近の那覇ができあがっていく。




葛飾北斎『琉球八景』の1枚『長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)』より


モノレール「美栄橋駅」前にある古い石碑がある。新修美栄橋碑という。この碑の由来を、現地にあった説明文から見てみる。


新修美栄橋碑(美栄橋駅前に建つ)


「いにしえの那覇は浮島と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便だった。そこで尚金福王は、1452(景泰3)年、冊封使を迎えるにあたり、国相・ 懐機(かいき)に命じて崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目タマキ屋米店駐車場付近)に至る約1kmの「長虹堤」という海中道路を築かせた。「長虹堤」には3つの橋が架けられたといわれ、美栄橋はそのうちの一つ。那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまう。そのため、川を浚(さら)え、橋を架け替えることになり、1735(康正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工した」

新修美栄橋碑にはその経緯を記してある。その後美栄橋は1892年(明治25年)に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし碑だけは原形を留め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。






4. 沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣
袖と袖とに露涙

(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)


5. 船の綱疾く解くと 舟子勇みて
真帆引けば風や真艫に午未

(ふにぬとぅむづぃなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてまふふぃきば かじやまとぅむにうんまふぃつぃじ)





那覇市前島と泊の間に架かる中之橋
じつはあの「中之橋」ではない!??

泊〜前島
地名からしてもこの辺りは海なのか島なのか曖昧な土地


上り口説(ぬぶいくどぅち)の中之橋は泊前島の中之橋ではない
長いこと泊の中之橋だとカン違いしていた。

順路からいっても美栄橋から現中之橋バス停付近へ後戻りするのは疑問に思っていた。那覇市経済文化部歴史資料室学芸員の外間政明氏の「しまたてぃNO.13」(PDF版)の中で、
「渡地(現通堂町付近)から三重城との間に5つの橋(「上り口説」で有名な中之橋など)を架け、「西の海」(現西2 〜 3 丁目付近、明治20 〜 30 年代にかけ埋立)と港内の潮の流れをはかった」と説明されている。謎は解けた。
 中之橋は通堂〜三重城間にあったのだ!


さらに上り口説で「沖の側まで」の沖は沖之寺の通称であることが知られている。

沖之寺は正式には臨海寺という。臨海寺は現ロワジールホテル近く、三重城の途中にあったらしい。明治41年那覇築港のため住吉町に移った。戦後、三重城付近は埋め立てられて港湾の倉庫などが建つ。昭和42年に安謝新港近く曙1丁目の現在地に再建された。

中之橋と沖之寺(臨海寺)…二つとも昔の場所には存在しない。上り口説の中之橋は現西町あたりで陸になり、臨海寺は曙1丁目へ移転した。それでは泊1丁目と前島1丁目間に架けられている中之橋はなんなのか? 疑問は尽きない。


前島1丁目にかかる現在の中之橋は上り口説の中之橋ではない
中之橋は那覇港の近く通堂(とんどー)〜三重城(みいぐしく)間にあったらしい



三重城近くにあった「沖」=沖の寺(臨海寺)は現在の那覇市曙に移っている



6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城 
残波岬
も後に見て

(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃ まにくおうじやみーぐすぃく ざんぱみさちんあとぅにみて)


三重城(みーぐすぃく)




ロワジールホテル裏の駐車場先から上がる三重城


三重城(みーぐすぃく)は那覇港の入り口に作られた台場で、倭寇に対する防御のために16世紀に作られた城塞だったらしい。反対側にも屋良座森城が作られ三重城と対をなしている。後に、船旅の乗客を見送る場所となり見送る人々は三重城までいって船が通過するのを見ながら扇で招くしぐさをしながら無事の帰還を祈った。

航海の無事を祈る拝所(ウガンジュ)も作られている。琉球舞踊「花風(はなふう)」の舞台にもなり、那覇の港を船出する愛しい人を見送る女性の姿が描かれた。当時は、海上に伸びる長い突堤の先端にあり、今の通堂町あたりから三重城に至るまで海中道路のようになっていた。






残波岬 あとに見て

 




7. 伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば
 七島渡中も灘安く

(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしばしちととぅなかんなだやしく)



伊平屋島沖合 運天港を出てまもなく船は揺れる。
静かに見える海だが、うねりがあって大きく揺れる。



新城喜一画集『失われた沖縄風景』より「伊平屋沖(イビヤドー)」イメージ画



伊是名島 ここを過ぎると奄美諸島


昔の船は南風を受けなければヤマトには行けません。
だから夏場だったんでしょう。夏といえば台風、気象衛星もレーダーも
ないからいつ台風が来るか分からない。ベテラン海人のカン頼りか。
あとは運を天に任すだけのタイタニック!(-_-;)




8. 立ちゅる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) 
 あれに見ゆるは御開門 富士に見まがふ桜島

(たちゅるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)



硫黄島




………




 御開門を越えると 桜島


新城喜一画集『失われた沖縄風景』より



「上り口説を往く」終了しました。


10分で鹿児島に着いた気分です(^o^;)



自身が小・中・高校と歩んできた道筋と重なる楽しい旅でした。


ここまで(斜めにでも)読んでありがとう、お疲れさまです。



  


Posted by 砂川よしひろ at 05:29Comments(6) 上り口説を往く

2007年11月30日

上り口説を往く10)

8. 立ちゅる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) 
 あれに見ゆるは御開門 富士に見まがふ桜島

(たちゅるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)


 硫黄島


 桜島

新城喜一画集『失われた沖縄風景』より

「上り口説を往く」終了しました。
無事に薩摩に着くようです。
お疲れさまです。明日から師走。  

Posted by 砂川よしひろ at 20:36Comments(2) 上り口説を往く

2007年11月29日

上り口説を往く9)

7. 伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々
見渡せば   七島渡中も灘安く

(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしばしちととぅなかんなだやしく)


伊是名島沖合 運天港を出てまもなく船は揺れる。
静かに見える海だが、うねりがあって大きく揺れる。


新城喜一画集『失われた沖縄風景』より「伊平屋沖(イビヤドー)」イメージ画

昔の船は南風を受けなければヤマトには行けません。
だから夏場だったんでしょう。夏といえば台風、気象衛星もレーダーも
ないからいつ台風が来るか分からない。ベテラン海人のカン頼りか。
あとは運を天に任すだけのタイタニック! 高波受けて転覆しそうになると…

南無八幡大菩薩 観自在菩薩 行人般若ハラミツタジ 照見五ウン皆空 〜般若心経……
ウートートーウートートー(あ〜尊い尊い沖縄の神様!)タンディガータンディ  
首里の観音堂 安里の八幡宮 三重城 神仏の助けを借りて無事に着け!
 私ならパニックになり、テキトウに祈るだけ。  

Posted by 砂川よしひろ at 17:55Comments(0) 上り口説を往く

2007年11月27日

上り口説を往く8)

6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城 残波岬も後に見て
(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃまにくおうじやみーぐすぃくざんぱみさちんあとにみて)

残波岬(読谷村)

残波岬(陸からしか撮れませんでした。あの白い船に乗りたかったのですが…)

ふるさとの 
シマにむかひて
いふことなし
ふるさとの シマは
ありがたきかな


 (石川たーぶっく)  

Posted by 砂川よしひろ at 18:33Comments(2) 上り口説を往く

2007年11月26日

上り口説を往く7)

6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城残波岬も後に見て
(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃまにくおうじやみーぐすぃく ざんぱみさちんあとにみて)
三重城(みーぐすぃく)


 ロワジールホテル裏の駐車場先から上がる三重城

三重城(みーぐすぃく)は那覇港の入り口に作られた台場で、倭寇に対する防御のために16世紀に作られた城塞だったらしい。反対側にも屋良座森城が作られ三重城と対をなしている。後に、船旅の乗客を見送る場所となり見送る人々は三重城までいって船が通過するのを見ながら扇で招くしぐさをしながら無事の帰還を祈った。航海の無事を祈る拝所(ウガンジュ)も作られている。琉球舞踊「花風(はなふう)」の舞台にもなり、那覇の港を船出する愛しい人を見送る女性の姿が描かれた。当時は、海上に伸びる長い突堤の先端にあり、今の通堂町あたりから三重城に至るまで海中道路のようになっていた。  

Posted by 砂川よしひろ at 02:42Comments(0) 上り口説を往く

2007年11月24日

上り口説を往く6)

3. 〜〜 袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋
(すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ ゆくんかゐるんなかぬはし)

4. 沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣袖と袖とに露涙
(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)

上り口説(ぬぶいくどぅち)の中之橋は泊前島の中之橋ではない
 長いこと現中之橋だとカン違いしていた。
 順路からいっても美栄橋から現中之橋バス停付近へ後戻りするのは疑問に思っていた。那覇市経済文化部歴史資料室学芸員の外間政明氏の「しまたてぃNO.13」(PDF版)の中で、
「渡地(現通堂町付近)から三重城との間に5つの橋(「上り口説」で有名な中之橋など)を架け、「西の海」(現西2 〜 3 丁目付近、明治20 〜 30 年代にかけ埋立)と港内の潮の流れをはかった」と説明されている。謎は解けた。
 中之橋は通堂〜三重城間にあったのだ!

 さらに上り口説で「沖の側まで」の沖は沖之寺の通称であることが知られている。
 沖之寺は正式には臨海寺という。臨海寺は現ロワジールホテル近く、三重城の途中にあったらしい。明治41年那覇築港のため住吉町に移った。戦後、三重城付近は埋め立てられて港湾の倉庫などが建つ。昭和42年に安謝新港近く曙1丁目の現在地に再建された。
 中之橋と沖之寺(臨海寺)…二つとも昔の場所には存在しない。上り口説の中之橋は現西町あたりで陸になり、臨海寺は曙1丁目へ移転した。それでは泊1丁目と前島1丁目間に架けられている中之橋はなんなのか? 疑問は尽きない。誰か習わせてほしい。


前島1丁目にかかる現在の中之橋は上り口説の中之橋ではない
中之橋は那覇港の近く通堂〜三重城間にあったらしい


三重城近くにあった「沖」=沖の寺(臨海寺)は曙にある  

Posted by 砂川よしひろ at 19:06Comments(0) 上り口説を往く

2007年11月23日

上り口説を往く5)

3. 美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋
(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ 
  ゆくんかゐるんなかぬはし)

美栄地高橋(みいじたかはし)は 美栄橋
 首里を出発した「上り口説一行」は、崇元寺から長虹堤を通り美栄橋へ向かう。途中に十貫瀬(じっかんじ)があり、袖を連ねて当時の高橋を渡りいよいよ那覇の港へと近づく。


十貫瀬(元ダイエー那覇店向かい駐車場の北方付近)の青空

 第一尚氏五代王・ 尚金福の時代(1450〜1453年)当時、那覇と首里の間は海で隔てられて、冊封使来琉の際には、那覇の港から船を並べて橋代わりとするなど不便であった。1451年尚金福が国相・ 懐機(かいき)に命じて約1キロの海中道路を開通させた。
 長虹堤(ちょうこうてい)と呼ばれる現代版レインボーブリッジである。現在の崇元寺橋から松山一丁目あたりまで続いていた。これにより首里と那覇の往き来が便利になり、さらに次第に長虹堤周辺に土砂がたまり、逐次埋め立てられるうちに現国際通り〜久茂地付近の那覇ができあがっていく。


葛飾北斎『琉球八景』の1 枚『長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)』より

 モノレール「美栄橋駅」前にある古い石碑がある。新修美栄橋碑という。この碑の由来を、現地にあった説明文から見てみる。
「いにしえの那覇は浮島と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便だった。そこで尚金福王は、1452(景泰3)年、冊封使を迎えるにあたり、国相・ 懐機(かいき)に命じて崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目タマキ屋米店駐車場付近)に至る約1kmの「長虹堤」という海中道路を築かせた。「長虹堤」には3つの橋が架けられたといわれ、美栄橋はそのうちの一つ。那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまう。そのため、川を浚(さら)え、橋を架け替えることになり、1735(康正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工した」
 新修美栄橋碑にはその経緯を記してある。その後美栄橋は1892年(明治25年)に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし碑だけは原形を留め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。

新修美栄橋碑  

Posted by 砂川よしひろ at 18:15Comments(1) 上り口説を往く

2007年11月22日

上り口説を往く4)

2.袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡
崇元寺

(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ)



 崇元寺(そうげんじ)は、沖縄県那覇市泊にあった臨済宗の寺で、1527年第二尚王統・尚円によっ創建されたとされている。沖縄戦により焼失・全壊したが、三連アーチ型の石門が現在でも残っており、1972年の本土復帰と同時に国の重要文化財・歴史的建造物に指定された。
 かつて尚円が安里大主と組んで自らの手で追放した(滅ぼした)第一尚氏王統の霊を弔う寺であったとの説もある。場所は長虹堤の玄関口(終着点)、今も昔も川と道路の分岐点。
 駐車場のないドライブスルーだけの観光スポットは、石門以外はなにもない。本堂のあったところは空き地か公園か区別がつかないほどシンプルな空間。復帰後、車の通行区分が右から左に変わってからはバス待つ人はめっきり減った。(写真・2007年11月の午後なのにまるで中世・室町時代か!)


裏の木々と石門のコラボはなかなか趣がある
晩秋なのに木の葉が元気!
  

Posted by 砂川よしひろ at 19:44Comments(3) 上り口説を往く

2007年11月21日

上り口説を往く3)

2.袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡崇元寺
(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ)

八幡は安里八幡宮である。

 安里八幡宮は1466年、喜界島が朝貢しないので尚徳王(第一尚氏七代)は遠征に向かう途中安里村を通りかかったとき鳥が飛んでいて、王は「わが兵に利あらば、この鳥を射落とせしめよ」と念じて矢を放ったところ鳥は射落とされた。のちに喜界島を平定したので鳥を射落とした地に八幡宮を建て、隣接して寺を構え神徳寺と名づけた。

↓八幡宮のすぐ下方にある 八幡神徳寺↓


 八幡大菩薩とは、日本で古くから信仰されてきた八幡信仰に、神仏混交として大菩薩の号が付けられた。平安初期に祭神の応神天皇・玉依姫・神功皇后が定められたといわれ平家物語にも出てくる「南無八幡大菩薩」のように護国・武の神の象徴。
 廃藩置県後の神仏分離策で仏像・仏画など取り払われたのか、宮は荒れはて昭和初期には雨漏りのするまま放置されていた。戦後は安里地域の有志によって守られ続け現在の宮に建て替えられたのは平成8年。例祭は旧暦9月9日。大道小学校と泊小学校の通学境目。近くには稲嶺一郎(りゅうせき初代会長・元県知事稲嶺恵一氏の父)邸もある。  

Posted by 砂川よしひろ at 19:10Comments(2) 上り口説を往く

2007年11月20日

上り口説を往く2)

2)袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡崇元寺
(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ)

大道松原(うふどーまつぃばら)は、現都ホテル付近から松川坂下〜大道まで続く松並木の呼称である。現沖縄ホテル裏手に大道毛(うふどーもう・だいどうやま)と呼ばれる丘があるが(実は大道で生まれ育った私の少年時代の格好の遊び場)、又吉道路沿いに建つ那覇市の案内版には1501年尚真王は円覚寺修理用の材木としてこの丘に松の苗1万株を植えさせ「指帰(サシカエシ)松尾の碑文」を建立した、とある。王国時代後期、見事な松並木が続いていたことが想像できるが、廃藩置県・琉球処分(1989年)後、松並木は切り倒され、1945年の沖縄戦で碑文も消滅、戦前戦後の宅地開発などで道路の形も道筋も大きく変わった。また明治〜大正期に軽便鉄道の線路の盛土用に大道毛の一部を削りとったという形跡がある。いずれにしても美しい「大道松原」は影も形もなく復元しようという話もない。


わずかに緑地が残る大道毛から松川坂下を臨む


沖縄ホテルの東・道路沿いに建つ「大道松原」の案内版


産業王といわれた戦後沖縄経済の偉人・宮城仁四郎(故人)邸は大道毛の中腹にある
  

Posted by 砂川よしひろ at 18:01Comments(4) 上り口説を往く

2007年11月19日

上り口説を往く1)

上り口説(ぬぶいくどぅち)
1. 旅ぬ出で立ち観音堂 千手観音伏し拝で黄金酌とて立ち別る
(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる)

2.袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく行けば八幡崇元寺
(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ)

3. 美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋
(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ ゆくんかゐるんなかぬはし)

4. 沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣袖と袖とに露涙
(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)

5. 船の綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば風や真艫に午未
(ふにぬとぅむづぃなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてまふふぃきば かじやまとぅむにうんまふぃつぃじ)

6. 又も廻り逢ふ御縁とて招く扇や三重城 残波岬も後に見て
(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃ まにくおうじやみーぐすぃく ざんぱみさちんあとぅにみて)

7. 伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば
 七島渡中も灘安く

(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしばしちととぅなかんなだやしく)

8. 立ちゅる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) 
 あれに見ゆるは御開門 富士に見まがふ桜島

(たちゅるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)

古典舞踊曲・上り口説 (ぬぶいくどぅち)は首里を出発して那覇の港から船に乗り、奄美諸島、トカラ列島を通り過ぎて薩摩へと旅をするありさまを謡っている。那覇から鹿児島港までは、現在は大型客船でおよそ20時間の旅。1時間ちょっとの飛行機に比べればだいぶ時間がかかるのだが、昔は風が順調に吹いたとしても3日以上かかったという。途中には伊平屋沖合など波荒く潮流の早い難所が待ちかまえているから命がけの旅。突然の嵐に遭うこともしばしば。出発にあたって首里観音堂で旅の無事を祈り、親類縁者と別れの杯を交わしていったとさ。


首里観音堂(しゅりかんのんどう)
正式の寺号は慈眼院。万歳嶺とよぶ丘にあって視界が開け海が臨める。渡航無事を祈願する寺として上り口説では「旅ぬ出立観音堂、千手観音伏し拝でぃ…」と謡われる。十八夜拝み(旧暦1・5・9月)には沖縄各地から人々が訪れる。安置されている守り本尊は千手観音(子)・虚空蔵菩薩(丑・寅)・勢至菩薩(午)・普賢菩薩(辰・巳)で、家内安泰・旅行安全・健康などを祈願する。観自在・観世音といわれるように、すべての人を観、救う働きが自由自在な菩薩。  

Posted by 砂川よしひろ at 17:28Comments(2) 上り口説を往く