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2008年06月07日

塩屋のけむり

塩屋の琉歌碑(しおやのりゅうかひ) 大宜味村塩屋


宵もあかつきも 
 なれしおもかげの
立たぬ日やないさめ 
 塩屋のけむり


これはハーミンゾー(塩屋の村の中にある森で昔はテチンジチとよんでいた)にある
歌碑に刻まれた琉歌である。与那原親方良矩。組踊「花売りの縁」の出羽(んじふぁー)の歌。


読み)ゆいんあかつぃちん なりしうむかじぬ
   たたぬふぃや ねいさめ しゅやぬちむり


意味)朝な夕な親しんだあの人の面影がたたぬ日はない。
   ちょうど塩炊きの塩屋の煙が立たない日がないように。


   

塩屋湾



この歌碑に詠まれた美しい自然の中で、祖先たちは永い年月の中の間に、
あるとき風雨とたたかいながら生活の基盤を築きあげてきたといわれる。


今日はユッカヌヒー、ハーレ競走の日

塩屋のファーリー(国指定文化財)は毎年旧盆明けの初亥の日に行われる行事
今年こそは必ずや自分の目とカメラに焼き付けたい。

  

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2008年01月29日

やんばるの歌碑25)

まっどのそとは あめ
あめがふってる〜  …みればわかる
 
ヨコハマで新聞配達をやっていた学生の頃…
30年前の寒い朝をいまだに思い出させる

けさの雨 

明け方に
やっと大学に合格した夢をみた
入学したら少し周りからウいていた
たしかに50歳になっていたものだから…

…………………………………………………………………


やんばる晴れた日に〜最終章〜
谷茶前の浜の碑(たんちゃめのはまのひ)



谷茶前の浜に
スルル 小(グヮ)が寄(ユ)てぃてんどう  ヘイ
スルル 小(グヮ)が寄(ユ)てぃてんどう  ヘイ

ナンチャ マシマシ
リアン小(グヮ)ソイソイ 


意味)
谷茶前の浜にイワシ科のキビナゴが寄ってきた…
あーそうかい 女たちよ さあさあ…


日本語訳が実にそっけなく聞こえる。やはりネイティブランゲイジがいい。 

「谷茶前節の踊り」は、舞踊の名人・玉城盛重氏が明治20年代に振りつけたもので、ざるや舟を漕ぐかいを持って踊る姿は多くの人に知られている。

男が魚を採り女がざるに入れ頭に載せて村々で売り歩く光景を、そのまま表現している雑踊り(ぞううどぅい)の代表格。雑踊りといっても素人が踊る雑な踊りのことではない! 

雑踊りは、女踊り、二才(青年)踊り、老人踊り、と並ぶ一つのカテゴリー。中国雑技団の「雑」とニュアンスが似てる。雑炊も旨い。工夫を凝らした創作踊りをブランド化したものか。

歌碑は国道58、タンチャナントカシタカミホテルから北向け左。谷茶の丘バス停を過ぎたあたり。歌碑は伸び放題の草木に隠れて見えないから、車停めて降りてしばらく歩いて探すとよい。


雨の日は 道が混む ことに月末…
連日雨なので車のワイパーのゴムとれた 
2000円もかかった 気分よくない
でも明るく楽しく元気よく、生きましょう!  

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2008年01月27日

やんばるの歌碑24)

金武節の碑(きんぶしのひ)



こばや金武こばに 
竹や安富祖竹
やねや瀬良垣に
張りや恩納



読み)
くばやちんくばに 
だきやあふすだき
やにやしらがちに 
はいやうんな


意味)くばは金武で取り、竹は安富祖で取り、瀬良垣でやね(竹を細く削ること)を、最後に恩納で張り、くば笠を作り終えた。

金武節の歌碑は金武観音堂の近く、役場から入ると右上の角。金武節は他にも25首ほどあり、,芝居の道行き時のバックミュージックやさびしい情景で歌われる。
「くまや金武の くま岳や安富祖岳 ありや瀬良垣に 走りば恩納」もある。



…………………………………………………

相撲が面白かった
横綱同士の力と力のぶつかりあい

学んだのは「気持ちの強さ
朝青龍と白鳳 力は互角
白鵬に軍配があがった

万事、気持ちの強さが成功へとつながる
そう 気の持ちよう  日頃の稽古も気持ちが左右する
ここぞというとき 大きな力を発揮する 集中力も やはり気持ちから
  

Posted by すながー at 18:22Comments(8)TrackBack(0) やんばるの歌碑巡り

2008年01月22日

やんばるの歌碑23)

恩納節の碑(うんなぶしのひ)

恩納松下に 
 禁止の牌のたちゆす
戀しのぶまでの
 禁止やないさめ





読み)うんなまちしたに ちぢぬひぬたちゅし
   くいしぬぶまでぃん ちぢやねさみ
   

意味)恩納番所(役場)前の松の木の下に、いろいろな禁止事項の立て札が立っているようだが、まさか恋することまで禁止したものはないでしょう!


尚敬王代(1713〜1751)、首里王府による男女の風俗取締が厳しかったらしい。当時地方の農村では、若い男女の毛遊びがさかんに行われていたが、そのような「風紀の乱れ」を、名所巡りでやってくる中国からの観光団(冊封使一行)には見せたくないという役人の大きなお世話から、風俗取締が立て札が立った。

それを見た恩納ナビィがいささかの皮肉をこめてこの歌を詠んだという。情熱の歌人・恩納ナビィの碑は、いまでは観光名所となり県内外から訪れる人も多い。恩納ナビィら当時の若者は相当なアシバー?だったという話である。

風俗取締の立て札とはどのようなものだったのか? 現在の字恩納公民館裏の松下にその立て札はなく。ナビィの歌碑だけが残っていること自体、なんともおおらかさを感じる。その恩納ナビィはイラストでキャラクター化され、恩納村の観光大使的な役割を見事なまでに果たすようになった。

……………………………………………………………………………………

北国では冷凍庫よりも寒いというのに沖縄では小雨模様のあたたかい朝。
今日は旧暦の12月15日、ことしも残りわずかですね。そうそう火の神お忘れなく!
夜は月が見えるかな?
  

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2008年01月19日

やんばるの歌碑22)

波の声もとまれ…(なみぬくぃんとぅまりのひ)




波の声も止まれ
 風の声も止まれ
首里天がなし 
 美御機拝ま


読み)なみぬくぃんとぅまり
   かじぬくいんとぅまり
   しゅいてぃんがなし
   みゅんちうがま

意味)波の声も止まれ 風の声も止まれ
   すべてのものよ、しずまれしずまれ
   みんなして厳かに 首里国王様の
   お顔を拝みましょうよ!



創作)
むかしむかし、恩納村にナビィというすごい霊力を持つ女性がいた。
首里から琉球の国王をはじめエラいお方がいらっしゃると、
波の音を止めたり、風をやめさせたりするらしい。
年に数回の屋外イベントには欠かかせない人物だ。

それだけではない。
自分の彼氏に会いたいがために、山を押しのけたり動かしたりもする。
きけば日頃はごくふつうの農民の娘らしい。
いやあ、沖縄女性のパワーはスゴイなあ!


万座毛


琉歌*追加

恩納岳あがた里が生まり島 
森ん押しぬきて此方なさな


意味)恩納岳のあちら側(金武)は里(恋人)の生まれた村、
   山を押し払って村をこちらになそう。


やはり普通じゃない。

山まで押しのけて当時の間切(現在の市町村)合併までやりかねない。
金武間切の「松金(まちがに)」という青年に恋をしていたらしいが。
大胆不敵でダイナミックな琉歌はナビィの真骨頂。
……………………………………………………
  

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2008年01月18日

やんばるの歌碑21)

屋嘉節の碑(やかぶしのひ)


なつかしや沖縄 戦場になとい
世間お万人と 涙ながち
  (歌碑のまま引用/後略)

読み)なちかしやうちな いくさばになとぅい
しきんうまんちゅとぅ なみだながち

読み)わが沖縄は戦場になってしまい
   万人を泣かせるほど苦しめてしまって
   悲しいことです。
    (想像してごらんオールピープルで築く戦のない平和な世の中を)



屋嘉ビーチ前バス停留所にどーんと座る屋嘉節の碑。屋嘉節は1945年、金武村屋嘉の米軍捕虜収容所を中心にカンカラア三線で歌われていたという。歌碑には7番まで記されているが、それぞれの歌詞は歌い手によって微妙に変わってくる。

2008年になったばかりなのに早くも来年の話でなんだけど、2009年はオリンピック後の中国のバブルがはじけ東アジアが混乱しそうな予感がする。国内では団塊世代の大量退職のピークで、彼らの退職金だけで市町村財政は破綻寸前だともいう。

ガソリンが1リットルあたり200円になっても、豆腐が1丁500円になっても給与や売上は上がるどころか下がる一方でも、賢明な皆さんは、けっして早まったことはしないでおこうね。だいじょうぶ、根拠はないけど、いまなら間に合う! 夢をしっかり持って一つ一つ問題をクリアしながら、時代の荒波を乗り越えていこう!(選挙のなにかみたい?)

私は?といえば、今年も来年もその次の年も、世界平和や地球規模の環境問題から少しだけ距離を置いて、それでもエコバックは二つ持って、私個人と周囲の幸福を中心に生きていくだろうと思う。それでも個人の事だけ考えることは、もはやできなくなったグローバル・ヤンバル・コクバルな世界。

悪いことばかりは起きない、はず、だが手放しで楽観してはいけない。努力を重ねていけば、なにかいいこともあるはずと、私は思うのであります。

〜悩み多き者たちよ、時代は変わっている〜あらゆることがすべてのことが〜〜(斎藤哲夫の歌が心に響く/ 2008年〜2009年、幸あれ)

ところで2009年は、薩摩の琉球侵攻400年の節目……
不条理で悲惨なワンサイドゲーム…

県内アーチストや歌人、詩人、童話作家は何を思う? 
 鬼が笑うだけではないはず…ね  

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2008年01月12日

やんばるの歌碑20)

二見情話の碑



(男)二見女童や だんじゅ胆清らさ
   海山ぬ眺み 余所に勝さてぃよ

  (二見の娘は本当に心が美しい
   二見の海山の眺めもすばらしい)


(女)二見村嫁や ないぶしゃやあしが
   辺野古崎坂ぬ 上り下りよー

  (二見村の嫁には なりたいけれど
  辺野古崎の坂の 上り下りの辛さよ)


(男)行逢たしや 久志小
(女)語たしや 辺野古
(男)思てぃ通ゆたしや 花ぬ二見よ
(逢ったのは 久志 語りあったのは 辺野古
  思いつめて通ったのが 花の二見


(男)待ちかにてぃ居たる 首里上いやしが
(女)出ぢ立ちゅる際や別りぐりしゃよ
(待ちかねていた 首里上りだけど
旅立つ際の 別れの辛さよ)


(男)行かい
(女)行ぢ来よと 交わす云言葉や
(男)ぬがし胆内に 思い残ちよ
(「行ってくるよ」「行ってらっしゃい」と交わす
 言葉はなぜか心の中に 想いが残るよ。)


(男女)戦場(いくさば)ぬ哀り 何時が忘りゆら
忘れりがたなさや 花ぬ二見よ
(戦場の悲しさは いつかは忘れられるが
忘れがたい 花の二見よ)


やってきました宜野座の先、名護東海岸・花の二見。辺野古のアップダウンは昔の村嫁を苦しめたきつい坂だったんだね。

二見情話は戦後できた島唄の中でも男女掛け合いで歌うデュエット曲の代表格。やや本土の民謡の旋律も感じられれ、やんばるの歌の中でも多くの人に歌われ親しまれている。

二見は、普天間基地の「移設候補」の隣・歌に出てくる男女が語り合った辺野古と隣接する静かな村。ジュゴンが海草を食べに来る大浦湾の目の前。戦場(いくさば)の哀れはけっして忘れてはならない。繰り返してならない。子々孫々に語り継がれていくもの。ただしいやさしいであれ。悲しみはいらない。



二見公民館前の石に刻まれた歌詞

  

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2008年01月09日

やんばるの歌碑19)

汀間当の碑(てぃーまとうのひ)




汀間と安部境の 
河の下ぬ浜うりて
汀間の丸目とカナと
請人神谷と恋の話し


(はやし)サーフンヌカヤー マクトカーヤー

読み)てぃまとぅあぶさけぬ かぬしちゃぬ はまうりてぃ
   てぃまぬまるみカナとぅ うきにんかみやとぅ くいぬはなし
(はやし)サーフンヌカヤー マクトゥカーヤー 
 
意味・解説)
汀間と安部の村境にある川下の浜辺で、汀間の丸目カナ(目のぱっちりしたかわいい加奈さん)と首里の請人奉行の神谷厚詮が恋を語っている。はやしで、それは真実(まこと)かーと連呼する。

首里から来た貢ぎ物を取り立てる税務役人と村娘の密会〜はダメらしい。知られたら二人とも村にいることはできないというから、会うのは命懸けだ。けっきょく実在する二人の恋は村じゅうにバレて、首里にも知れ渡り、神谷は懲戒免職?…そのあと二人はどうなったかしらない。

汀間当を三線で歌う心ある方は「懲戒免職」となった神谷の気持ちも察してほしい。ところでカナは名護に出て、その美貌でいちやく町の人気者になって大金持ちと結婚した♪  という話はないが……案外ありうる。
現在、たとえば内地から来たばかりの男子学生たちと村娘たちの合コンは…いまでもダメでしょう。村の青年会が認めやしない。大太鼓のバチでたたかれるよスグ。


汀間公民館前の拝所 鳥居代わりの2本の木に特徴がある

拝所の概要は↓↓↓↓…以下のとおり。
  

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2008年01月08日

やんばるの歌碑18)

またしばらく歌碑やります。ファイルにたくさんあるものですから…
きみまろが「中高年は、どこへ出かけても、まずは石碑の前で集まって、
文字を見て、意味わからなくても、なんとなく納得する。そんな不思議な習性があるのです」と、中高年の特徴をお笑いネタにしていた。うちあたいする。



吉田賀盛歌碑(よしだかせいかひ)



松風は歴史を語る心持ちして
ゆか志き仁を称え仰ぎつつ




意味)この老松にそよぐ風は長い歴史の重みを感じさせる
   この松を植えたゆかしき人の気持ちを称え仰ぎます

   ゆかしきとは、なんとなく心がひかれるという意味

名護市天仁屋(てにや)小学校の校門近くにある。吉田賀盛氏が昭和37年に当時の久志村立天仁屋小学校校長時代に樹齢200年の老松の勇姿を称えて詠んだ歌。「天仁屋(スーナ)の御神松(ウカミマーチ)」とあがめられ、ムラの神木として大切にされている。




天仁屋は有銘と安部崎の中間地点、大湿帯のふもとにある。大湿帯は22年前、集団移住してムラを形成し、農業から沖縄の自立を模索している人々と、週末に泊まりがけで交流・作業をしたことがあった。大地に根をはって生きる人の気持ち、よくわかる。ニコニコ


付近ではよくパラグライダーが飛んでいるのが見える。鳥でもないのに無理して空を飛んだり、魚でもないのに、何かの罪を犯したかのように重い荷物を背負わされて海に入る人の気持ち、残念ながら私にはまだわからない。眠っzzz
  

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2007年12月29日

やんばるの歌碑17)

「浦々の深さ…」の碑 名護 城公民館向かい


浦々の深さ 
 名護浦の深さ
名護のみやらびの
 思いふかさ


読み)うらうらぬふかさ なごうらぬふかさ
  なぐぬみやらびの うむいふかさ

 
意味)各地に深くて美しい浦は数多いけれど、名護浦が一番である。
  しかし、それにもまして名護の娘たちの愛情は深くすばらしい。

浦=湾 海辺
みやらび=美童 乙女 若い娘

風光明媚な名護湾の美しさと名護乙女の人情の美しさは宮古根(ナークニー)の旋律で寄せては返す波のようにやや忙しく歌われる。

ナークニーとは「宮古島にルーツを持つ歌」という意味だと言われている。つまり、沖縄本島に伝えられた「宮古(ミャーク、ナーク)の根(ニー)」の哀調帯びた旋律が、本島の中北部を中心に広まっていったらしい。
ナークニーはモーアシビーと呼ばれる若い男女の野遊びで培われた即興歌。本島中北部に様々な歌詞のナークニーが歌い継がれている。

 一般的なナークニー

  昔ぐとやしが
  肝や今までんヨ
  忘りがたなさや
  ありが情
 
  共に眺みゆる
  人ぬ居てからやヨ
  ぬゆで照る月に我んね
  向かて泣ちゅが
 
  昔語らたる
  夢やちゃん見りばヨ
  しばし慰さみん
  なゆらやしが
 
  志情ぬくちゅみ
  浮世ある間やヨ
  たとい音信や
  までにあてん

「もう昔のことになった恋物語だが、私の心は今も燃えている。
忘れることができようか、あなたから受けた情愛を」から始まる。


一転して、南部は南城市知念

斎場御嶽・三庫理(セーファウタキ・サングーイ)

年の瀬に、今年も生かされたことをウタキで感謝(デジタル的遥拝)
来年も周囲との混合(カチャーシー)と融合(チャンプルー)を心がけ
生きていきたいと、かように思いわけであります。
すべての生物に愛と平和を!(J.レノン風自・ふーじー)

2007年もあと3日…
年賀状も掃除も終わり、あとは諸々の買い出し
30日と1日と3日に野球のスケジュールあり!!
年々身体が元気になって動くことに感謝です。

子年は十二支の最初の年。なにかを始めるのにたいへん良いそうです。

ところで
ラジオ党の私は普段テレビはつけてもあまり見ないのですが、
28日夜に「金スマ」には引かれるように見入ってしまいました。

三輪明宏さんと木村藤子さんは本物の超能力者だと思います。
お二人とも言葉のひとつひとつに重みがあるのに態度は謙虚。
人の役に立つ貴重な方たちとお見受けしました。

「よいお年を!」を「いい年して!」とまちがわんでね!
  

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2007年12月27日

やんばるの歌碑16)

大兼久節の碑(うふがねくぶしのひ)


名護の大兼久 
 馬走らちいしょしや
舟走らちいしょしや 
 わ浦泊


読み)なぐぬうふがにく
んまはらち いしょしゃ
ふにはらち いしょしゃ
わうらどぅまい


読み)名護の大兼久の馬場は競走馬を走らせておもしろいところである。
   また舟遊びをしてもたのしいところ。
   (何をやってもおもしろいところは)我が名護浦(湾)だよ。
※いしょしゃ=うれしい たのしい

昔の名護は歌碑のある現在の大中1丁目3番(おきぎん名護支店)から「ひんぷんがじゅまる」に向かって幅八間(14m)、長さ二十間(216m)の大兼久馬場があったという。いまでも直線道路に当時の面影を残す。美しい山あり海あり町もある。昔から北山の中心都市・名護は山海の珍味もなんでも揃っている。そして情け深い美童女(みやらび)も多いと聞く。名護はいいところだなあ、というのがこの歌のテーマ。(読人知らず)


裏通りの飲食街  約200mの直線道路は馬も陸上選手も走れそう
「クンチマン」はどんなスナックだろうか? 元気がでるのかな?

たしかに名護は、アメリカ(行ったことないが)でいえば、フロリダのリゾートにロッキーの山なみとニューヨークやボストンの都会にあるものすべて1か所に集約されているようだ。内地でいえば、神奈川県の湘南〜鎌倉の雰囲気に近い。

ところで許田の道の駅の宝くじはよくあたるらしい。2億円でも当たれば速攻で悠々自適なセカンドライフを満喫したいものだ、というのは私の願望。


最近よく使われるネーミング 「にふぇーでぇービル」 名護の飲食街にて  

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2007年12月25日

やんばるの歌碑15)

白い煙と黒い煙(しろいけむりとくろいけむり)


かなし思わらび 
 大和旅しみて
 残るふた親や
 いちゃし待ちゅが


読み)かなしうみわらび
   やまとぅたびしみてぃ
   ぬくるふたうやや
   いちゃしまちゅが


意味)いとしいわが娘を日本本土へ出稼ぎの旅に行かせて
   残された両親は、どのように待てばよいのか。


稲垣国三郎が詠んだ歌。稲垣は愛知県生まれで、1917年(大正6)に沖縄県師範学校教諭として赴任してきた。紡績女工として出稼ぎに行く娘を、貧しさと交通不便のために那覇まで見送ってやれない老父母が、名護城跡(なんぐすく)の一角で松の青葉を焚いて、立ち上る煙に別れの気持ちを託している情景を実際に見て詠んだ。

あとひと月もしないうちに名護城跡の桜は満開になるだろう。
ちなみに私と私の周辺でも もうすぐ桜咲く、はず。
2008年がよい年でありますように、などと書いてる年賀状
でもまだ2007年! いま しばし、ふりかえりみる。

ところで…
元旦当日にはがき大のデータを一斉送信するから 
無地のはがきも写真も図柄もなんでも送るから
必要な分だけそちらのプリンターから打ち出してはくれまいか?
  

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2007年12月22日

やんばるの歌碑14)

ふる里之碑と一里の碑

ふる里之碑(ふるさとのひ) 
  名護市稲嶺(真喜屋兼久)



名護からや羽地
 伊差川や一里
真喜屋兼久までや 
 二里のつもり


読み)なぐからやはにじ いじゃしちゃやいちり
   まじやかにくまでぃん にりぬちむい

意味)名護(番所跡・東江小学校付近)から羽地伊佐川までは一里(約3.9キロ)、真喜屋兼久までは二里くらいの距離でしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

一里の碑(いちりのひ) 
  名護市伊差川(JAスーパー敷地内)



名護からや羽地 
 伊差川や一里
真喜屋兼久までや
 二里ぬちむい


読み)意味)ふるさとの碑と同じ

 ※この下句「二里ぬちむい」は何故か表音式仮名づかいになっている。
  読みやすくしたちむいだろうが、やはりヘン?
 

解説)名護東江〜羽地の道行き歌。やんばるナークニーでよく登場する歌詞。昔の人は歩いて恋人に会いにいったりモーアシビに出かけるので、道行き歌が多いが、内容は恋歌にもなる。

そういえば大学の先輩(向こうは知らないはず)浜田省吾氏が「ラブソングは、どんなにテクノロジーが発達しても時代を問わず歌い継がれるもの」と言ってたことを思い出す。
私は一里を早徒歩で45分、遅く走って25分で到達するが、なんの記録でもない。
真喜屋には地元の名物牧師・知念さんの教会がある。
サーイレンナイト サーイレンナイト♪  
羽地内海は「ためいきでるほどきれい!」
明るい街灯やイルミネーションもいいが、星の見える暗い夜もまたいい。

  

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2007年12月19日

やんばるの歌碑13)

伊野波節の碑(ぬふぁぶしのひ) 



伊野波の石くびれ
 無蔵つれてのぼる
にやへも石こびれ
 遠さはあらな


読み)ぬふぁぬいしくびり んぞちりてぃぬぶる
にゃふぃんいしくびり とぅさわあらな


 「伊野波節」のふる里・本部町伊野波は、桜の名所八重岳のふもと、名護〜本部線の並里と本部町役場の中間点にある静かな集落。街道沿いの新しい「きしもと」そば屋から入って公民館の駐車場を借りるとよい。その集落の後方の山の石ころ道の途中に建っているのが、琉歌でおなじみの「伊野波」の一節の琉歌碑である。

 「石こびれ(いしくびり)」とは、両方から迫っている山峡の石ころ道のことで、「無蔵(んぞ)」とは愛しい女性のこと。「にやへも(にゃふぃん)」は、もっとという意味。したがって歌の意味は「伊野波の狭い石ころだらけの坂道を愛する人と連れ添って登っていく。普段は長く難儀な道だけれども、愛しいあなたと一緒ならもっと遠くまで続いてほしいと思う」


伊野波集落

伝承によると「朝帰りの二人にとって石くびりは人目の届かない格好の場所、仲睦まじく手を取り合って登っていく。石くびりを過ぎると伊豆味の村内に入り村人の目につくと困るので、二人は名残りを惜しみつつも朝には別れなければならなかった」というロミオとジュリエット風琉球古典音楽的ロマンス。
 そこで突然思い出す歌が井上陽水の「帰れない二人」
 ♪思ったよりも 夜露は冷たく♪〜
 だからなんなの? と思うときもある。
 年末のクソ忙しいときに!
  

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2007年12月17日

やんばるの歌碑12)

今帰仁城の琉歌碑(なきじんぐしくのりゅうかひ) 今帰仁城内


今帰仁の城
 霜なりの九年母
志慶真乙樽が
 ぬきやいはきやい


読み)なきじんぬぐしく しもなりのくにぶ
   しきまうとぅだるが ぬきやいはちゃい


意味)今帰仁城主最後の側女の志慶真乙樽(しきまうとぅだる)が、遅なりの九年母(くんぶ・ミカンの実)を胸にかけたり飾ったりしいている(王子をかわいがる)その姿は、なんともいじらしい。


今帰仁城跡

志慶真乙樽と若按司・千代松
 13世紀、今帰仁の志慶真村に乙樽という気だてのやさしい絶世の美女がいた。その妖艶な美しさは〈今帰仁御神〉とも呼ばれ、村人に慕われていた。時の北山王が、この乙樽に第二婦人になってもらいたいと望んだので乙樽はそれに従った。

 数年後、王の世継ぎがなく心配していたところに大病に臥してしまった。王は「今度の病気は回復の見込みがない。天命だとあきらめるが、残念なのは世継ぎができないことだ」と話す。
 その後、幸いに王妃が身ごもったと聞く。
「生まれる子が男の子なら世継ぎに、女の子なら城中から人徳の高い武士を選んで結ばせ、城を守ってほしい」と遺言し王は世を去る。

 まもなく生まれた男の子は千代松と命名された。乙樽は継子の千代松をことのほか慈しんだ。

 ところが満産祝いの日に突如、本部大王(もとぶうふしゅ)が謀反を企て今帰仁城を攻めた。今帰仁若按司千代松と王妃、乙樽は潮平大王に伴われて城を脱出したが、出産間もない王妃は力尽きて志慶真川に身を投げて死んだ。
 千代松は、潮平大王に守られて山田城へ落ちのびた。山田城で8歳まで過ごしたが、本部大王に追われる身となる。千代松は百姓の身なりで山田城を出て、北谷間切砂辺村へ落ちのびて身を隠した。

 苦節18年、旧臣が大宜味で旗あげをした。千代松は名を丘春と改め、その後総大将となり三千の軍兵で本部大王を滅ぼした。
 北山・今帰仁は再び丘春(千代松)の手に戻り、乙樽も一緒に暮らすようになった。乙樽は北山最高の神職ノロに任命された。
  青山洋二編著『琉歌の里めぐり』より抜粋


今帰仁の神々が祀られている「火の神の殿」  

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2007年12月15日

やんばるの歌碑11)

豊年口説の碑(ほうねんくどぅちのひ) 今帰仁村今泊公民館前



今帰仁城に 上て見ちゃりば
 誠昔ぬ 御ひざ元さみ
松の枝々 栄え茂りて
 何時んときわぬ 緑さしすい


読み)なきじんぐしくに ぬぶてぃんちゃりば
   まくとぅんかしぬ うひざむとぅさみ
 まちぬえだえだ さかいしじりてぃ
   いちんとぅきわぬ みどりさしすい


意味)今帰仁城に上がって(ふるさとを)眺めると
   本当に往時の城のおひざ元であったことが偲ばれる
   ときわなる松の木も生え茂り、いつも緑に包まれている

☆1972 年に字今帰仁と字親泊が合併して「今泊」公民館を建設。その竣工を祝って翌年に歌碑が建てられた。公民館の玄関前に樹齢300年以上と言われるコバテイシの巨木があり、区の古い歴史を象徴する名木として、県指定の文化財になっている。今帰仁は古代と現代が共存する地域のような風情がある。神々だけは滅びることなく、残されたグスクには、いまなお城跡とその周辺に怨念が宿っているかのよう。
今帰仁は「いま帰る…ひとし」とは読まない。


 今泊公民館前のコバテイシの巨木


 今泊集落の並木トンネル  

Posted by すながー at 03:03Comments(2)TrackBack(0) やんばるの歌碑巡り

2007年12月13日

やんばるの歌碑10)

恥うすい之碑(はじうすいのひ) 

野山越る道や 幾里隔みても
 闇にただひとり 忍で行ちゅん


読み)ぬやまくぃるみちや いくりふぃじゃみてぃん
   やみにただふぃちゅい しぬでぃいちゅん


意味)野山越える道が どんなに離れていても
   闇夜にただ一人で(恋人のところへ)忍んで行く

源河〜有銘の約8キロの中間地点に歌碑と逢引き場所はある。
県道14号は名護と大宜味と東村を分けるけっこう奥深い山中。
8キロを半分ずつ分ければ家を出て1時間で歌碑の場所で落ち合えるだろう。
ケータイなしの連絡手段は? 女の方は一人では危険ではなかったか? 
往復2時間はどうなのか? むかしは他に娯楽らしいものはなかったのか? 
現場に立つとよけいな疑問ばかり… 
歌碑の案内標識がないと探せない、と思う。  

Posted by すながー at 16:49Comments(2)TrackBack(0) やんばるの歌碑巡り

2007年12月11日

やんばるの歌碑09)

源河節の碑(じんかぶしのひ)



源河走川や 潮か湯か水か
 源河美童の おすでどころ


読み)じんかはいかわや うしゅかゆかみじか
   じんかみやらびぬ うしでぃどぅくる


意味)源河走川は海水と水がまじって、潮か湯なのか、それとも水であろうか。源河の娘たちが嬉々として水浴びしてい生まれ変わるところである。
 
旧羽地村源河公民館より800mくらい畑道なりにまっすぐ〜川沿い。源河川は古くから水量が豊富で流れが清いことで知られ、アユの生息地としても有名。集落沿いの肥沃な下流域は源河ターブックヮと称されやんばるでも有数な田園地帯。深い森ときれいな水と豊かな土地… 那覇育ちの私にとってため息が出るほどいいところ。私が行ったときには誰も水浴びしてなかった。逆に現代はいろいろ危ないと思う。
「歴史は古き源河川 清き流れに若アユの」〜源河小学校校歌より  いまでも充分納得できる。
「歴史も古き大道に 〜安里の流れ水清く」〜大道小学校校歌より  40年前から違和感あった。


歌碑裏の説明 達筆すぎて読みにくいです。  

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2007年12月10日

やんばるの歌碑08)

塩屋の琉歌碑(しおやのりゅうかひ) 大宜味村塩屋

宵もあかつきも 
 なれしおもかげの
立たぬ日やないさめ 
 塩屋のけむり


読み)ゆいんあかつぃちん なりしうむかじぬ
   たたぬふぃや ねいさめ しゅやぬちむり


意味)朝な夕な親しんだあの人の面影がたたぬ日はない。
   ちょうど塩炊きの塩屋の煙が立たない日がないように。


  せつない歌だねえ…
  そんな時代もあったなあ〜
  

 美しすぎる塩屋湾  

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2007年12月08日

やんばるの歌碑07)

恋し鏡地の碑(くいしかがんじのひ) 国頭村鏡地




奥間森の伊集の木や
花ん咲ちょさ 露かみて
ありから幾年なとうがや
見りば想いやまさて
戻て来うよう 鏡地に
      儀保正輝


読み)うくまむいぬ いじゅぬきや
   はなんさちょさ ちゆかみてぃ
   ありからいくとしなとぅがや
   みりばうむいやまさてぃ
   むどぅてぃくよう かがんじに

大意)奥間森から海岸寄りのふるさと鏡地の美しい田園風景。若き日に旅立った人(女?)との恋の語らいを想い偲ぶ、伊勢正三+武田鉄矢ふ〜じ〜(風自)ふるさと讃歌。「恋し鏡地」として1980年によへん愛子さんの歌でレコーディングされた。「戻て来うよう」〜は松村和子の「帰って来いよ」ふ〜じ〜でもある。一緒に歌ってください。
♪♪ ↓↓クリック
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/kaette_koiyo.htm



鏡地の人は石に歌を刻むのがお好き? 近所の宜保邸「かぎやで風」

「ウチナーグチは文学だと思ふ」  

Posted by すながー at 23:18Comments(2)TrackBack(0) やんばるの歌碑巡り