てぃーだブログ › 黄金の林住期は50から… ›  琉球八社巡り

2008年01月06日

琉球八社(7・8)

(7)天久宮(あめくぐう・那覇市泊)


「琉球国由来記」によると、銘苅村(現那覇市の北方)の銘苅翁子という者が、女人が度々洞窟に入るのを不審に思い、首里王府に報告した。王府の命を受けその洞窟に香を供えたら燃え上がった。そこに社殿を造営したことがはじまり。現在地の北方にあったが1734年に現在の泊高校と聖現寺の境内の間に移建した。近くには外人墓地もあり、ひと昔まえのヨコハマを彷彿させるような「港の見える墓公園」


聖現寺の隣に立つ天久宮の鳥居


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(8)金武宮(きんぐう・金武町金武)


金武観音寺

金武観音寺は、金武宮とは別に16世紀に日秀上人(にっしゅうしょうにん・妖怪退治のプロフェッショナル)によって創建された寺院。沖縄戦による焼失をまぬがれたため、1942年に再建された際に取り入れた木造の建築様式を今にとどめている。境内の樹齢300~400年というフクギやデイゴも見事。境内には鍾乳洞があり、有限会社金武酒造が酒蔵として利用している。 














樹齢400年のフクギ


鍾乳洞内:金武宮 (上の宮)

日秀上人と金武の鍾乳洞に関して以下のような伝説がある。

夜な夜なイケメン(カッコいい青年)に化けて村で一番美しい娘を誘い出した大蛇は、洞窟の前でホントの姿を現し娘に巻きついて、洞窟の中へ消えていった。昔から、この洞窟には大蛇が住み、若い娘の生肝を食っていたという。そのため村人、とくに若い女性は恐怖のため家に閉じ籠もる生活を強いられるようになった。そこで、本土から当時のブームに乗って沖縄移住してきた日秀上人が現れ洞窟の前で呪文を唱え、大蛇を洞窟に封印し、村人を恐怖から解放したとさ。なお日秀上人は首里、松川、浦添経塚などでも数々の妖怪を退治した実績のあるえらいお坊さん。


鍾乳洞内:金武宮 (下の宮)



茶屋で入場料を払い、洞窟入口から階段を降りる。
階段脇には、泡盛の搬入・搬出用のレールが敷設されている。階段を数段下りた途中に小さな祠(ほこら)が二つ並んでいる。金色の布袋像の側には、鍾乳石に「金武権現宮」と名札が付いている。階段を下りきるとそこにある石の上に、アルミの垣に囲まれた石祠がある。祠の前には祭壇も設けられている。どちらも金武宮の一部らしい。鍾乳洞奥の広い空間は天然の泡盛貯蔵庫として活用されており、茶屋で申し込めばあなたの泡盛を責任持って指定された期日まで保蔵してくれる。



昭和17年(1942年)に再建、沖縄では戦火をまぬがれた唯一の寺院
この絵(写真)、ナントカ派の絵画のようだと思いません?


琉球八社 オッシマイ 
 また12年後にネ!



今年から 皆様方にとって 怒濤のように
よいことばかりが 200年続きますように!  

Posted by すながー at 20:24Comments(11)TrackBack(0) 琉球八社巡り

2008年01月05日

末吉宮物語




末吉宮の
元日物語



一般の人は拝殿には上がれない
その後ろの本殿にはなおさら…

誰も見てないと思って上がると
警報機が大きく鳴り響くらしい…

下の社務所は灯りはついてるが
人のいる気配を感じさせない

でも上からカメラで見ているよう
そこで百円入れて引くおみくじは


やはり… 予想通り……






末吉 でした

  
タグ :末吉宮末吉

Posted by すながー at 17:27Comments(3)TrackBack(0) 琉球八社巡り

2008年01月05日

琉球八社(5・6)

末吉宮(すえよしぐう・那覇市首里末吉町)

末吉宮は尚泰久王代の1456年頃、天界寺住持・鶴翁(かくおう)和尚が熊野三社権現を勧請して奉祀したのにはじまるという。本殿は三間社流造り本瓦葺き。本殿と祭場はそれぞれ別の岩盤の上にあり、両間は切石積みのアーチ橋で継いでいる。
磴道(とうどう)は1971年に修理、本殿は1972年に復元された。国指定史跡。磴道とは社務所から祭場までの8段、祭場から拝殿までの21段および拝殿から本殿までの7段、計36段の石造階段部分をいう。
宮の下方には、末吉宮の神宮寺で俗に「末吉の寺」と呼ばれる遍照寺(万寿寺)の跡がある。寺には尚泰久王が寄進した釣鐘がかけられ、組踊『執心鐘入』のモデルとなったといわれる。正月には意外にも多くの参拝客が大名口と末吉公園口参道からやってくる。


京都の清水寺を模倣したような高床式の建築様式
よくこんなところ(森の頂上)に造れたなと思う
二つの岩盤を繋ぐ切石積みのアーチ橋も趣がある



安里八幡宮(あさとはちまんぐう・那覇市安里)

安里八幡宮は1466年、喜界島が朝貢しないので尚徳王(第一尚氏七代)は遠征に向かう途中安里村を通りかかったとき鳥が飛んでいて、王は「わが兵に利あらば、この鳥を射落とせしめよ」と念じて矢を放ったところ鳥は射落とされた。のちに喜界島を平定したので鳥を射落とした地に八幡宮を建て、隣接して寺を構え神徳寺と名づけた。廃藩置県後の神仏分離策後、宮は荒れはて昭和初期には雨漏りのするまま放置されていた。戦後は安里地域の有志によって守られ続け、1996年に現在の宮に建て替えられた。


隣接する八幡神徳寺

周囲は道幅の狭い住宅密集地だが神徳寺には駐車場がある
安里八幡宮と八幡神徳寺は安里地域の人に支えられている  

Posted by すながー at 06:21Comments(2)TrackBack(0) 琉球八社巡り

2008年01月03日

琉球八社(3・4)

謹賀新年


(3)普天満宮(ふてんまぐう・宜野湾市普天間)

戦後米軍に取り壊され1950年に再建される本殿は鍾乳洞のなかに設置されている。許可を得なければ入れない。昔の普天満権現時代の阿弥陀・薬師・聖観音を象徴する自然石三体を安置してある。宮の創建年代は明らかでない。首里桃原の美女は人目を避けて家に閉じこもっていたが、男に見られたので家を逃げ出した。そして、普天満の洞穴に入り消えた。人々は尊んで神とし、参拝して福を祈った。

 

(4)識名宮(しきなぐう・那覇市繁多川)

隣に新設された繁多川公民館がある。宮の縁起は、洞穴から空に光り射す霊石があり、大阿母志良礼(おおあむしられ・王府時代の高級神女)が祈ると霊験があった。尚元王(しょうげんおう・在位1556〜60)の子・尚康伯(しょうこうはく)は重病だったが、祈ると治ったので、この場所に識名宮と神応寺を創建したという。神応寺・聖現寺・万寿寺は臨済禅宗であったが、1671年真言宗に改宗され、護国寺の管轄になった。洞穴に本地仏の阿陀・薬師・観音を安置している。



普天満宮発祥伝説
「首里桃原にしとやかで絶世の美女がいた。これを伝え聞き、所望する男が多かったが、嫁ぐのをこばんでいた。それどころか、部屋に閉じこもり、戸を閉め、人に見られることも避けていた。その妹のほうは嫁いでいったが、妹の夫は『自分は義兄だから姉さんと対面してもさしつかえないだろう。会わせてくれ』と頼んだ。妻(妹)は『姉さんは必ず断わるので、私が世間話をしている間に、そっと見なさい』と教えた。当日、姉は見られたことを知り、走り出て普天満の洞穴に入って消えた。家人は後を追い、洞穴の中を探したが見つからなかった。それ以来、人々は尊んで神となし、願い事があると普天満宮に参拝して幸を祈る」
 
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世の男性が一度も見たことがない絶世の美女とは?
誰とも戦ったことのない史上最強の空手家とは?
羽衣伝説…その子孫が実在するという不思議??

いやあ、琉球には謎とロマンがいっぱい!(亀島先生ふーじーです)


(付録:百度踏揚・ももとふみあがり・むむとぅふみあがい)
尚泰久王の長女、勝連阿麻和利の妻、のちに阿麻和利を討伐した鬼大城の妻、のちに第二尚氏・尚円に追われる身となる百度踏揚(ももとふみあがり・本名)は、やはり絶世の美女だったらしい。史上最強のお嬢様は琉球史の悲劇のヒロインを一人占めしてしまった。百度踏揚は南城市役所(玉城役場)裏の陸上競技場東側のがけ下、仲栄真門中墓内に静かに眠る。


百度踏揚の墓  

Posted by すながー at 16:43Comments(2)TrackBack(0) 琉球八社巡り