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2008年01月25日

花は盛りに

地球温暖化の候 みなさまいかがお過ごしですか?
今朝は少し寒いけど、大丈夫です。いつまでも続きません。
あとひと月しないうちに暖かくなるそうです。


花は盛りに

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。 雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

  歌の詞書にも、
「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、
「障ることありて、まからで。」なども書けるは、 「花を見て。」と言へるに劣れることかは。 花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、 ことにかたくななる人ぞ、
「この枝かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。

 よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。男女の情けも、 ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。 逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、 遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
 
 望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、 いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、 うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。 椎柴・白樫などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて 心あらむ友もがなと、都恋しう覚ゆれ。

 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨の内ながらも思へるこそ、 いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。

 片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、 酒飲み、連歌して、果ては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて 跡つけなど、よろづのもの、よそながら見ることなし。

    (『徒然草』第137段より 後略/適当に区切った)


(現代語訳)
 桜の花は満開に咲いているさまだけを、月は曇りなく照りわたっているさまだけを観賞するものか、いや、そうではない。 雨を見ながら、月を懐かしみ、簾や帳を下ろしてひきもっていて春が過ぎていくのも知らずにいるのも、やはりしみじみと趣が深い。 今にも咲きそうな様子の梢、花が散りしおれた庭などこそ、見るところが多い。

 歌の詞書にも、「花見に参りましたが、すでに散ってしまっていたので。」とも、「具合の悪いことがあって、参りませんで。」などとも書いてあるのは、「花を見て。」と言ったのに劣ることであろうか、いや、劣ってはいない。 花が散り、月が傾くのを惜しみ慕う習慣はもっともなことであるが、特にものの情趣を解さない人は、「この枝も、あの枝も、花が散ってしまった。今は見どころがない。」などと言うようだ。

 どんなことも、最初と最後こそがおもしろい。男女の情愛も、一途に夫婦としての関係を結ぶのだけをいうものであろうか、いや、そうではない。結婚せずに終わってしまったつらさを思い、実を結ばなかった約束を嘆き、長い夜をひとりで明かし、遠く離れた空の彼方の恋人を思いやり、浅茅の茂った荒れた家に昔をなつかしむことこそ、恋の情趣を解するといえよう。

 満月が曇りなく照らしているのをはるか遠くの地まで眺めているのよりも、明け方近くまで待っていてやっと出てきた月が、いかにもしんみりとして、青みを帯びたように、深山の杉の梢にかかって見えているさまや、木の間からもれる月の光や、さっと時雨を降らせた一群れの雲の間に隠れている月のさまなどは、このうえなくしみじみとした趣である。小さな椎の木や白樫などの、水にぬれているようなつやつやした葉の上に月の光がきらきらしているのは、身にしみわたるようで、情趣を解する友がいればなあと、都が恋しく思われる。

 総じて、月や花を、そのように目だけで見るものだろうか、いや、そうではない。春は家から出かけなくても、月の夜は寝室の中にいるままでも思いをはせているのは、とても期待が持たれ、趣深い。教養のある人は、ひたすら好みふける様子もなく、おもしろがる様子もあっさりしている。

 片田舎の人に限って、しつこくすべてのことをおもしろがる。花のもとには、にじり寄り近寄りして、わき目もふらず見つめて、酒を飲み、連歌をして、しまいには、大きな枝を、容赦なく折り取ってしまう。泉には手足をつっこみ、雪には降り立って足跡をつけるなど、すべてのものを、遠くからそれとなく見ることがない。

… … … … … … … … … … … … … … … … … … ………… … …

片田舎の人:
ここでは「もののあはれ」を解さず礼節をわきまえない人をいう。現代では都市部に多い。


花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは
いつも混雑する「まつり」に行かない「時代おくれ男」が言い訳にしている一節です。
               



本文とはあまり関係のない越来ウガン
王子様、ウートートー…  

Posted by すながー at 05:44Comments(2)TrackBack(0)もののあはれ

2008年01月24日

もののあはれ

『徒然草』第十九段に「をりふしの移りかはるこそものごとにあはれなれ ..」がある。

春の部分…

「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いまひときは心も浮き立つものは、春の気色にこそあめれ

「物事に情趣を感じるのは秋が一番さ!」と、多くの人が言っているが、それもそうなのだけれど、いま、いっそう気持ちが浮き立つのはこの春の瞬間だと思う。(春は本部〜今帰仁が一番さ!)

〜根音さん、こんな訳でよろしかっでしょうか?(コンビニ風・過去形的疑問文だけど)〜

をりふしという言の葉にいたく感動した記憶がある。漢字をあてると「折節」、意味は季節である。沖縄には季節の折々ごとに節(しち)の旧暦行事はあるが、日本本土のようなはっきりした四季は感じられない。桜の散り方もはかなく舞うのでなく、ボテっと頭に落ちてきそう。十二の月のほかに、全然ピンとこない大寒や甘露などの二十四節気もあるんだということを本で知ったのは青春時代。
子どものころ文部省唱歌や流行り歌に出てくる季節にギモンを持ったことはないですか? 四月に白いサクラが咲く国があるのか!…なんて。季節のない街に生まれ育った私だが、清少納言の『枕草子』や兼好法師『徒然草』との出会い、とくに季節のうつろいをつづる段には目からウロコだった。夏以外はほとんど未知の世界だったから。

「なんで〜すぐに扇風機か必要な暑い春?(四月〜)が、あんなに待ち遠しいんだろう?」「秋の夕暮れは斜め45度から照りつける日差しが相当きついのに、なんだこの情感溢れるもののあはれの表現は?」というふうに苛立ちは多かった。でもまもなく不思議な魅力に取り憑かれ「もののあはれ」の世界にぐいぐい引き込まれていった高校時代。

ところで「をりふしのうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ。」と『徒然草』第十九段で兼好法師はつづっているが、 最近は物事に情趣を感じ取るこの「あはれ」の精神が忘れ去られ、人の心が荒廃してるような気がする。

少し前に亀田兄弟に見られた礼節を忘れた粗野な言動が、 あたかも新しい時代の、マスコミも一緒になって新しい時代のヒーローであるとうそぶくかのごとき。
このところ株が乱高落する沖縄も含めた慌ただしい日本社会の中で、一日30分でいい、心静かに日本〜琉球の古典を味わいたいもの。

日々の営業や経済活動とは何の役にも立たないような古典だけど、完全になくしてしまうと、私たちの住んでる街は偽装主義者とゴミだらけになりそう。




伊祖神社(浦添市)・本文とは関係ないよ…  

Posted by すながー at 04:38Comments(2)TrackBack(0)もののあはれ