› 黄金の林住期は50から… › 沖縄のグスク・拝所2008年06月20日
宮城の羽衣伝説

宮城には羽衣伝説の言い伝えが残る御宿井(うすくがー)とよばれる井戸があります。
ある日、農民が井戸に行くと、美しい天女が沐浴をしていました。天女の衣を隠し、衣を無くした天女は天に昇ることができず、この地で農民と夫婦となり暮らしたそうです。そして一男一女が生まれ、のちにその男子は地頭になり、女子はノロとなったそうです。
(南風原町宮城公園にある説明碑文より)

※以下、文献を参考にした説明と私個人の推測です。
農民の名は大国子という。近くに住んでいて、ときどき夜にこの井戸から光が射すのを不思議に思い、ある夜のぞきに行った。そこには、1人の美女が彩色豊かな衣を脱いで枝にかけ、水を浴びていた。
容姿はひときわ美しく、この世の者とも思えぬ神々しさ(この辺は決まり文句)で、月の国の姫か大和の貴婦人であろうかと、しのび寄って衣を盗み持ち帰って隠した。
天女は衣を無くした天に昇るこができず、この農夫と夫婦になった。おそらく天女ということにしておいたほうがのちの暮らしでは安全だったのだろう。ヤマト武家の女だと噂されようものなら対外的に危険だったのかったのかもしれないと勝手に推測する。
のちに1男1女をもうけ、成人して男子は宮城の地頭職になり、女子はノロ職(神女)を授かった。
天女が亡くなったとき、久場塘御嶽にある一ツ瀬という岩に葬り、村じゅうが崇敬した。子孫は中(仲)里門中といわれる。この岩は今次大戦の爆撃で消滅し、跡地にセメント造りの祠が設けられた。
伝説なのに子孫も門中も実在することから普通の人間だったと思われる。島流しにあった平家の女であろうか。謎は謎のままがいい。西洋人のように白黒はっきりさせたがるのは「日琉的もののあはれ(情趣)」とは趣を異にする。
私の職場の道路向かいには浦島太郎の話とほぼ同じ龍宮伝説、裏手の丘には羽衣伝説がある。直線でわずか数百メートルしか離れていない地域に日本昔ばなしを代表する二つの伝説があるということ。以前は首里南後方の静かな場所だと思っていた南風原の与那覇と宮城。同じ地名は沖縄の他所にもいくつか見られるのだが。最近、この地域が気高いものに思えてきた。
2008年06月17日
龍宮城へ行った男の墓を拝みました
龍宮城へ行った男の話
昔むかし南風原間切与那覇村に正直者の若い漁師がいたそうな。南風原与那覇といえば与那原と隣接する土地。JEFよなばるとジャスコはえばる店の中間くらいの場所だ。
そんな若い漁師がある日、今よりはずいぶん海が近かったであろう与那原の浜でカラジ(つけ髪)を拾った。人のいい漁師は村中歩いて落とし主をさがしたが見つからなかった。
ひょっとすると浜辺にカラジの主が現れるだろうと、暇さえあれば浜辺を歩いていた。しばらくして漁師の前にこの世の者とは思えぬ美しい娘が現れて、「この髪は私のです。ありがとうございます。さ、龍宮へ遊びに行きましょう」と手を引いて海底に入った。純朴な若者に断る理由などない。美しい娘に誘われるまま手をつないで海の中へ消えていった。
娘は龍宮城の乙姫様であった。(地元のスナック○△のホステスさんではない♪)
漁師は、タダで酒さかなをごちそうになり、連日連夜、飲んで歌って踊る龍宮城の暮らしがすっかり気に入り楽しく遊び暮らした。
さすがに3カ月ほど経つとそろそろ飽きてきて古里を思い出して帰りたいと言った。
乙姫様は「すでに人間世界では33代もたっている。ここでいままでのように楽しく過ごしなさい」と引き止めたが、若者の決心が変わらないので、紙包みを渡し「心細くなったら、この紙包みを持って戻って来なさい。ただし開けてはいけない」と警告した。(帰らないほうがいいのに…)
郷里に帰ってみると、知らない人ばかりで、家族のことをたずねても狂人扱いにして相手にしない。とほうにくれて生まれ育った与那覇村の丘に登って桑の杖をつき座りこんだ。
あの紙包みに良案があろうかと、開けてみると白髪だけで、それが飛んで来て体に付き、たちまち老衰して死んだ。のちに与那覇の村人が老人の死体をみつけたが、普通の人間ではないと考えてその場所に丁寧に葬り、穏作御嶽(ウサンウタキ/神名「クバヅカサノ御イベ」)と名づけた。
この御嶽にたくさんの桑木があったのは、その桑杖から種が生じたものと伝えられる。現在ははえばるジャスコに徒歩10分内で行ける住宅地。現在でも嘉手苅門中と古くからの与那覇の字(区)民と、今年から近くに事務所を構えた私・すながーも拝んでいた。よく考えたら伝説の人の墓である。
過去に「スナック龍宮城」が開業したとは聞いていない。
あれば流行るかも。ただし教養のある美しい乙姫様にかぎる。
来月あたり桜坂の竜宮通りにでも行きたくなってきた(笑)
伝説なのに墓もあり現在でも区民に大事にされている。
そして今日、私は拝んできた。
「安らかにお眠りください」…そして
「私も龍宮城とやら一度行ってみたい…」

だいぶ草ぼうぼう 梅雨空けたら刈ります

隠作根子(うさんにーしー)の墓
ふりかえって汗を拭くと梅雨空けの空気だった
となりの宮城集落には羽衣伝説があります。
気がむいたら次回に紹介します。
羽衣伝説と龍宮伝説
伝説現場はわずか数百メートルしか離れてない。そのちょうど中間地点で私は仕事をさせてもらっている。なんも意味はないと思うが…潜在意識に何か願望でもあったのかな。
ひたむきに思う商売繁盛 千客ばんないOK?
2008年旧暦5月14日
夜になるときっと美しい
十四番目の月が南東の空に上がるだろう。
参考:『沖縄の伝説と民話』月刊沖縄社
昔むかし南風原間切与那覇村に正直者の若い漁師がいたそうな。南風原与那覇といえば与那原と隣接する土地。JEFよなばるとジャスコはえばる店の中間くらいの場所だ。
そんな若い漁師がある日、今よりはずいぶん海が近かったであろう与那原の浜でカラジ(つけ髪)を拾った。人のいい漁師は村中歩いて落とし主をさがしたが見つからなかった。
ひょっとすると浜辺にカラジの主が現れるだろうと、暇さえあれば浜辺を歩いていた。しばらくして漁師の前にこの世の者とは思えぬ美しい娘が現れて、「この髪は私のです。ありがとうございます。さ、龍宮へ遊びに行きましょう」と手を引いて海底に入った。純朴な若者に断る理由などない。美しい娘に誘われるまま手をつないで海の中へ消えていった。
娘は龍宮城の乙姫様であった。(地元のスナック○△のホステスさんではない♪)
漁師は、タダで酒さかなをごちそうになり、連日連夜、飲んで歌って踊る龍宮城の暮らしがすっかり気に入り楽しく遊び暮らした。
さすがに3カ月ほど経つとそろそろ飽きてきて古里を思い出して帰りたいと言った。
乙姫様は「すでに人間世界では33代もたっている。ここでいままでのように楽しく過ごしなさい」と引き止めたが、若者の決心が変わらないので、紙包みを渡し「心細くなったら、この紙包みを持って戻って来なさい。ただし開けてはいけない」と警告した。(帰らないほうがいいのに…)
郷里に帰ってみると、知らない人ばかりで、家族のことをたずねても狂人扱いにして相手にしない。とほうにくれて生まれ育った与那覇村の丘に登って桑の杖をつき座りこんだ。
あの紙包みに良案があろうかと、開けてみると白髪だけで、それが飛んで来て体に付き、たちまち老衰して死んだ。のちに与那覇の村人が老人の死体をみつけたが、普通の人間ではないと考えてその場所に丁寧に葬り、穏作御嶽(ウサンウタキ/神名「クバヅカサノ御イベ」)と名づけた。
この御嶽にたくさんの桑木があったのは、その桑杖から種が生じたものと伝えられる。現在ははえばるジャスコに徒歩10分内で行ける住宅地。現在でも嘉手苅門中と古くからの与那覇の字(区)民と、今年から近くに事務所を構えた私・すながーも拝んでいた。よく考えたら伝説の人の墓である。
過去に「スナック龍宮城」が開業したとは聞いていない。
あれば流行るかも。ただし教養のある美しい乙姫様にかぎる。
来月あたり桜坂の竜宮通りにでも行きたくなってきた(笑)
伝説なのに墓もあり現在でも区民に大事にされている。
そして今日、私は拝んできた。
「安らかにお眠りください」…そして
「私も龍宮城とやら一度行ってみたい…」

だいぶ草ぼうぼう 梅雨空けたら刈ります

隠作根子(うさんにーしー)の墓
ふりかえって汗を拭くと梅雨空けの空気だった
となりの宮城集落には羽衣伝説があります。
気がむいたら次回に紹介します。
羽衣伝説と龍宮伝説
伝説現場はわずか数百メートルしか離れてない。そのちょうど中間地点で私は仕事をさせてもらっている。なんも意味はないと思うが…潜在意識に何か願望でもあったのかな。
ひたむきに思う商売繁盛 千客ばんないOK?
2008年旧暦5月14日
夜になるときっと美しい
十四番目の月が南東の空に上がるだろう。
参考:『沖縄の伝説と民話』月刊沖縄社
2008年06月07日
今月の斎場御嶽



南城市は候補者一人。無投票当選で静かでした。
ウタキは相変わらず神々しく光っていました(ケータイで撮影)。
10年後はウタキ巡りガイドやってます。 ~ウタキー巡りの~♪
2008年05月29日
護佐丸展

『護佐丸展』…門中の方はもちろんそうじゃない方も揃って出かけましょう。
場所は名護以南の沖縄本島のほぼ中央、「北中そば屋」の上から入ったところです。
売りたい本は『護佐丸伝』です
2008年05月23日
伊祖城跡から

私のウォーキングコースに伊祖城跡がある。梅雨入り前の先日久しぶりに汗をかくために歩いた。浦添市伊祖集落の東北丘陵にある伊祖城跡は、英祖王(1260年即位)の父・恵祖世主の居城で、英祖はここで生まれ育ったと伝えられる。眼下に牧港港をひかえ、周辺には地味ゆたかな畑が広がっていたという。現在は住宅地が密集している。伊祖城を謡った「おもろ(沖縄の古謡集)」に、「伊祖の石城、伊祖の金城、いよやに襲て(いよいよ支配して)ちよわれ(ましませ)」「伊祖の戦もい(戦さ上手な)月の数遊び立ち(祝宴して)十百度(いつまでも)若ティダ(英祖王)栄せ」と賞賛された。昭和10年、城門のあったところに鳥居を、また北側の本丸跡に鉄筋コンクリートの神殿を建てて伊祖神社と称し、城内の拝所を合祀した。現在は伊祖城跡公園の中にある。訪れる人は地元の自治会の管理者以外あまりいない。拝殿の裏から続く頂上の物見台に上がるけもの道もあまり知られていない。いま書きながらしみじみと思うのは、私を含めて周りの関係者が経済的によくなってほしいということ。少しでも心にゆとりがなければ日々の暮らしに追われてやつれて、せっかくの沖縄の自然や文化遺産を愛でるゆとりもなくなってしまう。実際に沖縄の宝物を堪能しているのは本土からの方がほとんどのような気がする。なおこのテキスト(原稿)はわざと文字を詰めて控えめに読みにくくしてあります。
2008年05月22日
白銀堂由来記
「意地ぬ出らぁ手引き 手ぬ出らぁ意地引き」の白銀堂由来記

薩摩の武士児玉が鹿児島に着き、真夜中に屋敷に戻ってみるとなんと妻が男と寝ている。怒って刀を抜いたが糸満の漁師美殿のことば「意地(怒り)が出たら手を引け、手が出たら意地を引け」を思い出し刀をおさめた。灯りをつけてよく見ると、妻の側にいるのは男の着物を着て寝ている自分の母親であった。留守中はなにかと用心していたという訳である。児玉はもう少しで自分の母と妻を斬り殺すところだったと胸をなでおろした。そして糸満漁師美殿を命の恩人としてほめ讃えたくさんの褒美を送ったとか。めでたしめでたし。しかし、もし…自分の母親ではなく父親だったら児玉は人間不信に陥ったろう(苦笑)。糸満漁師や白銀堂もどうなったことやら…(怖)〜いい妻や家族でよかったね、という話。

薩摩の武士児玉が鹿児島に着き、真夜中に屋敷に戻ってみるとなんと妻が男と寝ている。怒って刀を抜いたが糸満の漁師美殿のことば「意地(怒り)が出たら手を引け、手が出たら意地を引け」を思い出し刀をおさめた。灯りをつけてよく見ると、妻の側にいるのは男の着物を着て寝ている自分の母親であった。留守中はなにかと用心していたという訳である。児玉はもう少しで自分の母と妻を斬り殺すところだったと胸をなでおろした。そして糸満漁師美殿を命の恩人としてほめ讃えたくさんの褒美を送ったとか。めでたしめでたし。しかし、もし…自分の母親ではなく父親だったら児玉は人間不信に陥ったろう(苦笑)。糸満漁師や白銀堂もどうなったことやら…(怖)〜いい妻や家族でよかったね、という話。
2008年04月27日
安波のタナガーグムイ

南部から一転して国頭村安波のタナガーグムイ(数年前に行った)
かなり体力がないとロープを使って下りることはできないであろう
地球の鼓動が聞こえてきそう
地球の鼓動といえば平原綾香「Jupiter」
彼女、観音寺の薬師如来像に見えてしかたがない。
↓ ↓ ↓ ↓
http://jp.youtube.com/watch?v=L9UWh780V7Y&eurl=http://rainbow333.ti-da.net/
ぜひ今度、国頭郡金武町にある金峰山観音寺で歌ってほしいさあ。
100人くらいの少人数で…
2008年04月25日
受水走水
ジュスイソウスイ
うけみずはしりみず…などとけっして読んではいけません
小学校4年の遠足でこの辺りの山に入り込み一時行方不明になったクラスの男の子がいた。担任の若い照子先生は泣きながら井戸の中を探していた。先生方数名を残しバスは夕方近く学校に帰った。おれクラス委員長やってた。でも先にバスで帰った。車中ではみんな黙ったままだった。幸いに夜までに地元の人に発見されて助かった。名前は良安(りょうあん)といって幼なじみだった。一緒にビーチで遊んでいたら急に受水走水の方向に呼ばれるように消えた。怖かった。かれは当時「うきんじゅはいんじゅ」とまだ読めなかったようだ。翌日は学校に来て普通にみんなと遊んだ。本人はあまり憶えていないらしい。照子先生は真っ赤に日焼けしてやつれ果てていた。良安は「遠足で迷子になった男子」として学校じゅうの人気者?になった。40年前の話。
うきんじゅはいんじゅ と正しい琉球語で読むべき!
ここは沖縄の稲作の発祥地として伝えられる聖地。
「琉球国由来記』によれば昔、阿摩美久(アマミキヨ)がギライカナイ(海の彼方の理想国)から稲の種子を持ってきて玉城親田。高マシノシカマシノ田(?)に植えはじめた。又、伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原(みーばる)村の「カラウカハ」というところに落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツのよって受水走水の水田(御穂田・みふーだ)に移植されたという。三坪の御穂田は神田(かみだー)として現在でも稲作儀礼の対象である。同名・神田川の元祖である。東京の神田川は人工用水路である。(南城市が立てた看板の文にかなり加筆)
2008年04月21日
久志観音
土曜日、仕事でさーっと東海岸を走り抜けました~
が、しかし、
どうしても立寄りたい場所があります。

久志観音堂
ちゃんと拝みました。
久志間切の最初の総地頭となった豊見城王子朝良と久志親方助豊が1688年、堂を建て観音石像を奉安したという。村じゅうの人が毎月18日に祈願した。間切全体で祭祀をおこなっていたが、明治の置県後は久志区が中心になって旧暦1月18日と9月18日に祭祀している。地元では観音堂を「ティラ」とよんでいる。石像の高さは約1m、古いため磨滅している。堂は赤瓦ぶき、チャーギ材の柱で、1973年に修復された。
日頃は無人の「ティラ」だが、朝夕に雨戸の開け閉めや清掃など管理されている方がいるようだ。
これ以上北部の自然を壊したり海を埋め立てないでほしいと観音様は願っていると思われてならない。先祖から受け継いだ宝物。

辺野古崎坂(ヒラ)ぬ 上り下りよ〜
が、しかし、
どうしても立寄りたい場所があります。

久志観音堂
ちゃんと拝みました。
久志間切の最初の総地頭となった豊見城王子朝良と久志親方助豊が1688年、堂を建て観音石像を奉安したという。村じゅうの人が毎月18日に祈願した。間切全体で祭祀をおこなっていたが、明治の置県後は久志区が中心になって旧暦1月18日と9月18日に祭祀している。地元では観音堂を「ティラ」とよんでいる。石像の高さは約1m、古いため磨滅している。堂は赤瓦ぶき、チャーギ材の柱で、1973年に修復された。
日頃は無人の「ティラ」だが、朝夕に雨戸の開け閉めや清掃など管理されている方がいるようだ。
これ以上北部の自然を壊したり海を埋め立てないでほしいと観音様は願っていると思われてならない。先祖から受け継いだ宝物。
辺野古崎坂(ヒラ)ぬ 上り下りよ〜
2008年04月10日
浦添グスク


自宅屋上から見える浦添グスク北側斜面。(ケータイで撮影)
新たに復元された「ようどれ」が右。
左端、墓団地の上に為朝岩とも呼ばれる頭突き出た岩・離瀬(ハナレジー)が見える。
足場が悪いので今は入れないかもしれないが、為朝岩の位置から東海岸が一望できる。
冬至の日の朝は、久高島から太陽が昇るようになっているという。
沖縄の地形やグスクの位置は神様によってうまく設計されているなと感服する。
六十三年前の今頃は日米両軍の地上での戦いが行われていたところ。
嘉数高台を突破され、前田高地、浦添城趾に陣をしいた日本軍は、
圧倒的な火器、戦車、砲弾を有する米軍に激しく抵抗したがまもなく一掃され南部に撤退する。
米軍上陸地点から摩文仁まで戦跡巡りをするツアーに参画し、勉強してたのは二十五年位前。
4月から6月にかけてたえず沖縄戦の憂鬱が頭をよぎる。
うりずんの候、家庭訪問の候、いろいろもの思ふ季節
2008年03月27日
なぜか観音寺
いつものようにまく〜が開き〜♪
舞台に出る直前の心境……最近経験ないなあ…
なぜか金峰山観音寺(高野山真言宗)です。
沖縄の山陰地方または日本海沿いと勝手に名付けている
国道329号走ってました。
途中、美里越来方面城前下車
日米両軍に火遊びに注意報発令中。
火の用心、火薬も用心…カチカチ
2008年03月24日
グスクトライアングル
遊び心で作った「世界遺産グスクトライアングル」
城跡の跡形もないために世界遺産どころか
県指定文化財にもなれなかった越来グスクが常にセンターにある。
※携帯でも見えるように解像度を小さくしました↓

「だから何っ?ていわれればそれまで…」
中学生の「数学」三角形の重心定義の証明用には使えるはず。
注)このデータは無断で複写しても結構です
城跡の跡形もないために世界遺産どころか
県指定文化財にもなれなかった越来グスクが常にセンターにある。
※携帯でも見えるように解像度を小さくしました↓

「だから何っ?ていわれればそれまで…」
中学生の「数学」三角形の重心定義の証明用には使えるはず。
注)このデータは無断で複写しても結構です
2008年03月18日
尚宣威の墓
コザの「熱いにぃにぃ」と勝手に連動してデータの掃除してたら写真が出て来た。
策略により退位させられた王
尚宣威王(しょうせんいおう)の墓

美来工業高校(元中部工業)の裏門前を渡り左道を行く。尚宣威王の墓は崖の中腹にある横穴墓で、石段が設けられている。
尚円王が病死し、世子の久米中城王子(のちの尚真王)は幼少(12歳)との理由で、諸臣に推されて尚宣威(尚円王の弟)が王位に就いた。尚宣威は越来王子として六年間、越来城にいたが、即位してからは首里城に居住した。
しかし、在位六カ月後に「神のお告げがあり、尚真こそ王を継ぐべき」と、神女が託宣した。これは神の仕草をする神女と、尚真の母とが策略したもので伝えられる。尚宣威は退位し、越来村に隠れるように暮らした。
その子孫は湧川殿内門中。長男の越来王子朝理(湧川殿内の始祖)は越来間切総地頭だったが、二世からは越来間切見里の脇地頭にさがった。後年、尚真王の四男朝福が越来王子となり、越来間切総地頭になった。(『拝所巡り300』より一部抜粋)
よい子のみなさん、拝むところではごみを捨てたり汚したりしないでください。
たぶんだけど、あなたとあなたの子孫までたたるかもしれませんどすえ!
反対にいつもお庭や公園、墓の周辺を掃除している方はいいことばかりが続き、子々孫々まで栄えてうやき繁盛するでしょう。きっと。
策略により退位させられた王
尚宣威王(しょうせんいおう)の墓

美来工業高校(元中部工業)の裏門前を渡り左道を行く。尚宣威王の墓は崖の中腹にある横穴墓で、石段が設けられている。
尚円王が病死し、世子の久米中城王子(のちの尚真王)は幼少(12歳)との理由で、諸臣に推されて尚宣威(尚円王の弟)が王位に就いた。尚宣威は越来王子として六年間、越来城にいたが、即位してからは首里城に居住した。
しかし、在位六カ月後に「神のお告げがあり、尚真こそ王を継ぐべき」と、神女が託宣した。これは神の仕草をする神女と、尚真の母とが策略したもので伝えられる。尚宣威は退位し、越来村に隠れるように暮らした。
その子孫は湧川殿内門中。長男の越来王子朝理(湧川殿内の始祖)は越来間切総地頭だったが、二世からは越来間切見里の脇地頭にさがった。後年、尚真王の四男朝福が越来王子となり、越来間切総地頭になった。(『拝所巡り300』より一部抜粋)
よい子のみなさん、拝むところではごみを捨てたり汚したりしないでください。
たぶんだけど、あなたとあなたの子孫までたたるかもしれませんどすえ!
反対にいつもお庭や公園、墓の周辺を掃除している方はいいことばかりが続き、子々孫々まで栄えてうやき繁盛するでしょう。きっと。
2008年02月25日
2月晴れた日に

越来村教育発祥之地ですって…
ふ〜ん…やはり伝統と素晴らしい文化があるとこなんだ。
石の字を
やがて読み終えたら右上の雲が同じ形をしてくれました。感謝!
きょう…
首里森グスクから中城グスク、そしてコザの越来グスクへ
国道329号のグスクロードを北上しました。
工夫されたコピーだけど
う〜〜ん…
いろんなことを知ってるって?
もしや、あのことまでも…
〜ごめんなさい!
コザ銀天街〜若い人たちの協力で、やがて新宿、渋谷のようになるそうです。
芸術的なアングルに老若男女が賑わうイメージが受かぶ。今ならお買い得物件あり!
はうーめにーろーずますたーまんうぉーくだうん♪
風に吹かれて こーみんくゎんに着きました。
城前公民館にはとても熱く語る会長がいて、
自然発生的に「グスクライブ実行委員会」と
「越来グスク・アクションプログラム会議(仮称)」が開かれました。
たまごさんも来てくれました。
話し込んでいるうちに陽がだいぶ傾きました。
2008年01月14日
安須森御嶽
数年前に登った安須森御嶽(あすむいうたき)を紹介します。
辺戸岬から辺戸集落へ向かうと、右手に見える険しいラクダ背型の岩山が安須森(辺戸岳)です。安須森は始祖アマミクが最初に造った御嶽といわれ、琉球九嶽の一つで琉球の国土を鎮める神霊が宿る霊山です。

安須森 頂上(国頭村辺戸)
国道から脇の駐車場に車を停め、途中からロープを伝って険しい山路を登ります。中腹に「黄金森(くがにむい)」の標識があり、遥拝(ウトゥーシ)する所がありますが、御嶽はもっと上にあります。冬でも汗をたっぷりかいて頂上にあがりますと、360度パノラマの信じられないほど素晴らしい光景がああなたを迎えます。海の向こうは与論〜沖永良部島です。岩山の頂上はタワーのてっぺんの様相。下を見るとちょっと足がふるえますので見ないでください。
4つの峰の南(左側)の丘を黄金森といいます。小さな洞穴があってクガニガマと称し、祠(ほこら)があります。一方のアフリ嶽は、琉球最高神である君真物(きんまむん)が出現した聖地とされてます。この二つの御嶽を総称して安須森と呼んでいます。
頂上に上がるまで約30分のエクササイズ。足腰に自信がない方にはちょっと無理かもしれません。若いうちにどうぞ上がってみてください。特に今年成人になられた皆さまにおかれましてはこれは義務です。人にもよりますけど琉球魂のような不思議パワーが無料でもらえます。一生の宝になるでしょう。ただゴミを捨てたりとか付近の石や草花を持ち帰ってはいけません。確実にたたります。さあ、混雑する花見に飽きたら、年中空いてて明るく楽しい(?)御嶽巡りへ出かけましょう!
辺戸岬から辺戸集落へ向かうと、右手に見える険しいラクダ背型の岩山が安須森(辺戸岳)です。安須森は始祖アマミクが最初に造った御嶽といわれ、琉球九嶽の一つで琉球の国土を鎮める神霊が宿る霊山です。

安須森 頂上(国頭村辺戸)
国道から脇の駐車場に車を停め、途中からロープを伝って険しい山路を登ります。中腹に「黄金森(くがにむい)」の標識があり、遥拝(ウトゥーシ)する所がありますが、御嶽はもっと上にあります。冬でも汗をたっぷりかいて頂上にあがりますと、360度パノラマの信じられないほど素晴らしい光景がああなたを迎えます。海の向こうは与論〜沖永良部島です。岩山の頂上はタワーのてっぺんの様相。下を見るとちょっと足がふるえますので見ないでください。
4つの峰の南(左側)の丘を黄金森といいます。小さな洞穴があってクガニガマと称し、祠(ほこら)があります。一方のアフリ嶽は、琉球最高神である君真物(きんまむん)が出現した聖地とされてます。この二つの御嶽を総称して安須森と呼んでいます。
頂上に上がるまで約30分のエクササイズ。足腰に自信がない方にはちょっと無理かもしれません。若いうちにどうぞ上がってみてください。特に今年成人になられた皆さまにおかれましてはこれは義務です。人にもよりますけど琉球魂のような不思議パワーが無料でもらえます。一生の宝になるでしょう。ただゴミを捨てたりとか付近の石や草花を持ち帰ってはいけません。確実にたたります。さあ、混雑する花見に飽きたら、年中空いてて明るく楽しい(?)御嶽巡りへ出かけましょう!



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