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Posted by TI-DA at

2007年12月17日

やんばるの歌碑12)

今帰仁城の琉歌碑(なきじんぐしくのりゅうかひ) 今帰仁城内


今帰仁の城
 霜なりの九年母
志慶真乙樽が
 ぬきやいはきやい


読み)なきじんぬぐしく しもなりのくにぶ
   しきまうとぅだるが ぬきやいはちゃい


意味)今帰仁城主最後の側女の志慶真乙樽(しきまうとぅだる)が、遅なりの九年母(くんぶ・ミカンの実)を胸にかけたり飾ったりしいている(王子をかわいがる)その姿は、なんともいじらしい。


今帰仁城跡

志慶真乙樽と若按司・千代松
 13世紀、今帰仁の志慶真村に乙樽という気だてのやさしい絶世の美女がいた。その妖艶な美しさは〈今帰仁御神〉とも呼ばれ、村人に慕われていた。時の北山王が、この乙樽に第二婦人になってもらいたいと望んだので乙樽はそれに従った。

 数年後、王の世継ぎがなく心配していたところに大病に臥してしまった。王は「今度の病気は回復の見込みがない。天命だとあきらめるが、残念なのは世継ぎができないことだ」と話す。
 その後、幸いに王妃が身ごもったと聞く。
「生まれる子が男の子なら世継ぎに、女の子なら城中から人徳の高い武士を選んで結ばせ、城を守ってほしい」と遺言し王は世を去る。

 まもなく生まれた男の子は千代松と命名された。乙樽は継子の千代松をことのほか慈しんだ。

 ところが満産祝いの日に突如、本部大王(もとぶうふしゅ)が謀反を企て今帰仁城を攻めた。今帰仁若按司千代松と王妃、乙樽は潮平大王に伴われて城を脱出したが、出産間もない王妃は力尽きて志慶真川に身を投げて死んだ。
 千代松は、潮平大王に守られて山田城へ落ちのびた。山田城で8歳まで過ごしたが、本部大王に追われる身となる。千代松は百姓の身なりで山田城を出て、北谷間切砂辺村へ落ちのびて身を隠した。

 苦節18年、旧臣が大宜味で旗あげをした。千代松は名を丘春と改め、その後総大将となり三千の軍兵で本部大王を滅ぼした。
 北山・今帰仁は再び丘春(千代松)の手に戻り、乙樽も一緒に暮らすようになった。乙樽は北山最高の神職ノロに任命された。
  青山洋二編著『琉歌の里めぐり』より抜粋


今帰仁の神々が祀られている「火の神の殿」  

Posted by 砂川よしひろ at 01:40Comments(0)歌碑巡り