「ものみな時あり」
ネットで拾ったある人の論文の一部です。ところどころ省略してあります。多少荒っぽい表現もありましたが、よくよく考えさせられる教育論です。ひとつの意見として読んでいただけらたらと思います。あとで長い文で掲載。
そもそも子どもの教育に正解はけっして一つではありません。すべてが例外ともいうべき難しい問題ですね。
私は小学校高学年までに学校の教科書を暗記するほどしっかり日本語の読み書きを身につけ、複数の人の前でできるだけ大きな声で明瞭に話せる子なら英語を小学校から学んでもいいと思いますが、そうでなければ従来どおり中学校からでいいと思う立場です。
たとえば、小学校の国語の教科書をボロボロになるまで読み込み、古典(小学校高学年から本格的にあります)などの韻文などは暗記すれば、中学になってどの教科も八割は理解できて、ちょっとがんばれば九割は得点できます。もちろん週2回ほど塾でテクニックを教わればたいていのテストで満点近くいけるものです。
繰り返しますが、勉強ってもともとシンプルで楽しいものです。小学校6年間、教科書を両手でもって(できれば直立不動に立って)10メートル先まで聞こえるように音読を繰り返せばたいていのことはすっきり解決します。そんなものだと思っています。
私事ですが、これまで親をさんざん困らせた(と言っても私のせいで、中2で引きこもるなど悪くなり、高校・大学受験と連続して第一志望に失敗した)愚息が昨年、大学4年次に現役で沖縄県中学校英語の教員採用試験に受かり、この春から沖縄市の公立中学校で2年生の担任となり、部活顧問も家庭訪問もこなしながら、教室いっぱいに響く大きな声で頑張っている姿を見ることがありました。
夜には 「クラスにヤンキー(問題生徒)多くてたいへんだよ」という息子にかけた言葉は「彼らから学べ!もっと苦労しろ」です。彼も小さいときからいろいろ苦労してなんとかしてきました。今から思えば「
ものみな時あり」でした。すべて必要でした。きっとこれからもそうでしょう。(砂川)
【早期英語教育の問題点】都築詠一さんのご意見
(前略)
私は何も英語教育が不要だとか、英語ができなくてもいいと言うつもりはない。問題は英語の早期教育にある。だから以前のように英語は中学からで良い、とする立場である。「英語ができるようになるのだからいいじゃないか論」は、人間の教育全体からものごとを見る視座が欠けている。これはアホなサヨク人権派が主張する“早期性器教育”にも共通する。どうせやるんだから早く教えるべきだ、というアレである。
「ものみな時あり」とは樋口一葉の言葉だというが、そのとおりである。何でも修得には時期がある。早期の二カ国語(日本語と英語)教育はやってはいけないものである。幼児期の英語教育がなぜまずいかを説きたい。
(中略)
子どものときに英語を学習するということは、その言語で感情を覚えさせることである。日本語は「私はネコが好きです」と言う。英語では「I like a cat」であるが、日本語に“直訳”すれば「私 好き ネコ」となるのである。これが彼ら毛唐の認識の流れ、形成過程であって、それが言語化されて表出される。
日本語は膠着言語で、いわゆる「テニヲハ」があり、英語にはない。支那語にもない。つまり英米人や支那人は、「テニヲハ」抜きの認識でしゃべっている。よく支那人を揶揄的に真似して「ワタシ コレ 嫌イアルヨ」などと喋っているが、ああいう認識だから、よくよく日本語を勉強しないと、彼らは「テニヲハ」の認識が育たないのである。
英語も同じで、支那人風に揶揄的に言えば「ワタシ アルヨ 嫌イ コレ」と言っているのだ、奴らは。 それがどうした、それは民族の伝統なんだから、人は人でまずいことはなかろう、という人もいるだろう。たしかによそ様はそれでいい。
もし日本語をこれから「ワタシ アルヨ 嫌イ コレ」とか「「私 好き ネコ」とかにしろと言われたとしよう。あなたの感情は納得しますか? あなたはこれから日本語もそうやって喋りなさい、と言われたら、感情的に反発するでしょう?
それはあなたが、日本語を良いもの、楽しいもの、仲良くなれるもの、言えば要求が満たされるもの、というような快の感情で、母親から見事に教育されてきたからである。そういう言語に関する感情は1歳以前から母親に優しく抱かれながら「さあ、おっぱいよ」とか「おお、かわいいわね」とか、日本語で心地よく語りかけられ、遊びを通して文字を覚えてきた過去があったからである。
認識は、脳細胞が外界の反映で(赤ん坊のときは主に母親からの反映で)創っていく(創られていく)ものである。 赤ん坊から幼児にかけて、そういう言語修得の基礎は、日本語を母語とする母親から、感情を込めて反映し、修得していくものである。ただ単に、われわれは機械装置からCDでも聞くようにして日本語を学んだのではない。
ところがだ。英語はそうではない。日本の幼児にとっては、何の感情も伴わない言語である。あるいは妙な日本人的感情を持たない「へんな外人」がしゃべる言葉である。これは外人を差別しているのではない。
考えても見られたい。われわれは母親から赤ん坊のときに「これはワンワンよ」とか「イヌよ」とか言葉をかけられながら教わったのだが、母親が「ワンワンよ」と教えてくれるときに、「かわいいわね」とか「撫でると喜ぶよ」とか「いっしょに楽しく遊ぼうね」といった快の感情と直接に教わっているのである。
あるいは何か嫌なとか、怖いとかいうことについても、母親がやさしくフォローして、そういう嫌なことも学ばなければならないが、それを上手におさめるココロの働かせ方をも感情的に納得しながら覚えていくのである。
しかし、英語はそうではない。
教師が「This is a dog!」と叫び、それをオウム返しに話させて覚えるのが基本である。あるいはイヌの絵が描かれたカードを見せられ「What is this?」なんて怒鳴られて、答えさせられるのだ。 母親の教え方とは雲泥の差がある。小学校の教師だって、日本人なのだから母親と同じ日本人としての感情で、言葉やさまざまな知識を教えてくれる。外人はそうではないのだ。言ってみれば、ロボットに教わるようなものである。
いったい、赤ん坊のときから人間の手でなくロボットに育てられたら、人間はまともに大人になるか想像するだけで答えは出るでしょう。外人教師にだって感情はあるぞ、子どもが楽しく授業を受けられるようにしているぞ、と反論する向きもあろうが、これはそういうことではない。たしかに外人にも感情はあるだろうが、日本人ではない、ということが大事なのだ。
たとえば鮭は親が川を遡上して産卵し、生まれた稚魚はしばらく川で育ったあとで、大海に出ていくではないか。幼児期には川で育つ必要がある。だから日本人がいずれ国際社会に出ていくとしても、まずは言語の修得と日本人としての感情を直接に(切り離すことなく)学ぶ必要があるのである。
幼児期に英語を修得させようとすることは、生まれたばかりの鮭の稚魚をどうせいずれ大海に出るのだからと、海に放流するようなものである。サケならもしかしてそれでも適応するかもしれないが、人間の教育は親がその民族の感情で育てなければならないものである。人間は動物ではなく、認識的実在だからであり、認識は必ず感情像(好きとか嫌いとかの感情をともなった像)になるからである。
子どものときに英語をやって、その(希薄な?)言語で感情を覚えさせてはいけない。
また、認識の働きとは対象をわれわれの感覚器官に反映して、それが像として描かれる。この像を認識というのだ。認識は像である。
像が五感器官を通して反映し、形成される。すなわち実体があって反映されるのが正常だ。
ところが天下の秀才ほど実体抜きの反映を好んでやり、またそれが技化している、それが3つのときから早くも英会話だの足し算だのをやらせた成果なのだ。実際の像を反映せずに、ニセモノの像を反映するのが大秀才だ。幼児のときからそれで出来れば褒められるものだから、幼児は大喜びで、実体の像を反映しないで、ひたすら暗記する実力をつけることに快感を覚えてしまう。
誰だって、幼いながらも「ドッグ」「キャット」などと言えば褒められると分かれば、その期待に応えようとしてしまうだろう。それが幼稚園や小学校でやっている「点数をとらせること至上主義」だ。母親が実際に手で触れさせたりしてイヌやネコを、「かわいいね」と教えながら分からせた言葉は本物になるが、英語はそうではない。
これこそが、アタマの中でウソの像を創る作業なのだ。実物で、良い感情とともに、あるいは社会性のなかで、本物の像を創らなければならないのに、アタマの中でウソが創られる。先にも述べたが、ここで「良い感情」とは言ったが、人間には嫌な感情も怖い感情も起きるのだから、それを親はしっかりと本物の像として教えなければならないし、そういう嫌な感情をどう鎮めていくか、忘れていくかなども教わらなければならないが、煩雑になるからここではカットだ。
われわれは英語国民ではない。周囲は日本語なのだ。それを現実として、実体として、子どもはまず学習しなければならない、言語とは実体を反映したもので、しかも感情をともなっていると学習する過程が必須であり、そうでなければまともな人間に育たないのである。
子どもが始めからアメリカで育ち、アメリカ人として生きていくのなら結構であろう。日本にいることをただちに止めて、アメリカに移住したほうがいい。
幼児期から英語を習わせるから、家庭で親子の会話がなくなりもするのだ。子どもは親と距離を置くようになる。当たり前だ、日本人としての感情がまともに育っていないからだ。
親のほうは幼児期から日本文化と日本語のなかで感情を創ってきた人間なのに、子どもは中途半端。これでは齟齬が生じる。その親子の間隙を埋めるには、親が子どもに降りていって、感情を育てなおすしかあるまいが、そんなことをやる親はめったにいない。生活に忙しくて、子どもにかまっていられないし、面倒だから時間があればテレビにかじりついているだけ。子どもは独りでテレビゲームに熱中する。あるいは勉強に熱中する。親は、子どもが問題を起こさないし、おとなしくていいや、などと放っておく。
そこからしだいにココロの歪みが進行する。やがて鬱になったり、ココロの病になったりする。
そういう子が、せっかく一流の大学に入ったはいいけれど、一人立ちして現実に対応しなければならない時期になって、愕然とするのである。人に挨拶ができない。友だちの冷やかしに傷ついてしまう、仲間に入れない、失恋すると立ち直れない…とこういう事態になるのである。
これが早期英語教育のあわれな結末とも言えないこともないのだ。だから、どうせ英語が必要になるんだから、早くから学習させてしまえという、文科省の木っ端役人や教師ども、教育評論家どもがいかにドアホか分かるであろう。
人間は赤ん坊のときから小学6年・中学2年(思春期)までに感情が育つのだ。
その大事な時期に、秀才になった人間は感情が育たないように教育されてしまう。その最たるものが算数であり、早期の英語教育になっている。
受験勉強とは現実を五感器官全部を通してではなく、目だけつかって文字だけで覚えるものである。秀才は知識を強烈に吸い込む。人生、ココロ豊かになることが大事なのに、大人になって感性薄い人間になってしまう。
本来は対象の構造に見合うように、像の形成過程を経て育たなければならない。それが教育だ。
一歳児には一歳児の教育がなされる。きちんと目的意識的に。
ところが幼児期の算数や英語の学習は、像の形成がデタラメ、しかも感情が薄く、そのうえ過剰である。たしかに子どもは、強いれば覚えはするだろうが、メチャクチャである。
私たちはこの21世紀の日本の社会で生きていかねばならない。その社会の対象の構造に見合うように認識の形成過程がなされなければ、認識は歪む。
私たちは幼児からの教育で何を習得するかといえば、大人になったときにいかなる認識が必要かということから教育され、学習するのだ。
大人になったときに必要な認識とは、例えば困難に立ち向かう勇気とか、弱者や異性に優しいココロとか、挫折に負けない闘魂だとかであろう。そういう認識がしっかりと中学生なら中学生の時点で現実または実体で教育されていなければならないのである。
また中学生なら中学生の家庭や友人関係で必要な像とは、いわずもがな、同級生への友情とか感情豊かにする文学とかで創る像である。
そういうしっかりした像を形成するには、像が厚みを持ったものにならなければならない。
師弟愛とか友情とかであれば人間関係が深まり、像に厚みが出てくる。像の厚みが五感情として育っていくべきものである。
ところが、今はそういう教育環境にない。テレビは毎日流れている。マンガ雑誌は毎週流れてくる。テレビゲームもひっきりなしに新発売だ。薄い知識ばかりが感情の深まりもないまま、蓄積されていく。それも過剰に。
昔は、子どもが読む雑誌といっても月刊だったから、同じマンガや小説をくり返し読んだものであった。とりわけ戦前の「少年倶楽部」では。その同じもののくり返しで像が厚みを帯び、量質転化してその人間の深い教養となっていく。そういう過程が今の子どもたちは持てていない。
したがって、いわゆる公文式なる算数の上達法がどれほどまずいか、である。あれは次々に問題を解いていくものだそうだ。同じ問題をあきるほどくり返すならいいのに、次々に数字を変えて、それ応用、また応用、もっともっと応用を、とやってしまう。
英語でもおそらくそうだ。「This is a pen」とやったら、つぎは目的語を入れ替えて「cat」にし、「desk」にし…とやって応用していく。だから像が深まらないし、深まらない像を駆使するようなアタマになってしまうのだ。幼児早期英語教育もそうなっているだろう。
幼いときから、こうやって、像が薄っぺらになる教育をせっせとやる。そして子どもは薄っぺらな像を創るアタマにと量質転化していく。だからじっくり恋愛でも友情でも育てていくことができない。ちょっと嫌なことがあると、即別れる。会社にも定着できずに転々と職を変える。癒されることばかり望んで、自分から難局を克服していこうという闘志がわいてこない。…とこうなる。で、鬱になって同情を引こうとする。
(後略)
プロフィール
名前:都築詠一
年齢:(団塊世代です)
性別:男性