おめでとう!
難関・昭和薬科大学附属中学
御縁があって銘苅・安謝界隈(かいわい)で塾のしごとをさせていただいています。銘苅についてすこし書かせていただきます。
第二尚氏初代の尚円王の時代(1470~)に、真和志間切(まわしまぎり)安謝村(あじゃむら)銘苅、ちょうど今の東洋飯店と銘苅小学校の真ん中ほどの湿地帯で、銘苅子(めかるしぃ)という成人男性が、手足を洗っていました。
その時、とても人とも思われぬ美しい女性が、水浴びをしていました。
一目見て、天女にちがいないと思った銘苅子は、目も眩(くら)むばかりの美しい飛衣(とびんす)を、家の倉の稲束(いなづか)の中に隠したのでした。
そして知らぬふりをして、女性の側に行ったところ、その女性が涙ながらにうったえて言うことには、
「すみません。私は、天女ですが、空を飛ぶための飛衣を盗まれ、帰るに帰れず、難儀(なんぎ)いたしております」と。
「それはそれは、お気の毒に。私がきっと探し出してあげましょう」と銘苅子は答え、取りあえずこれを着なさいと、自分の着物を着せて、その美女を家に連れ帰ったのでした。
それから、月日がたちまち過ぎ去さって、二人は夫婦の契(ちぎ)りを交わし、二男二女の子どもが生まれました。
そんなある日のこと、姉が弟の子守りをしながら、こんな唄を歌いました。
初親(はつうや)の飛衣(とうびんす)
産親(なしうや)の舞衣(まいんす)や
稲束(いなたば)の刈籠(かりかご)に
粟束(あわたば)の結籠(ゆいかご)に
六俣(むつまた)の倉上(くらうい)にあん
八俣(やつまた)の倉上にあん
泣くなよー
泣くなよー
うみわらびー
この子守歌を聞いた母親は、たいそう喜び、ちょうど銘苅子が留守だったのをさいわいに、すぐさま羽衣(はごろも)を見付け出しました。
それから後、天女は、松の木から天に向かって舞い上りました。銘苅子と三人の子がそれに気付いて、行くのを止めたため、天女は、心を掻(む)きむしられ、いくどとなく舞い下りようとしたものの、折からの強風に煽(あお)られ、別れを惜しみながら、結局、天女は、天に上ってしまいました。
なお、息子は二人とも若死にしましたが、女の子は、尚真王の夫人となり、二人の間には長女、佐司笠按司加那志(さしかさあんじがなしい)が生まれました。
また銘苅子は、王城に召されて高官にまで上ったということです。
(上の文章は「横浜のtosi」さんのブログを参考にしています)
私は以前のしごとで宜野湾、南風原、そして銘苅に伝わる天女伝説の雑誌取材をしたことがあるのですが、私見ですが沖縄県内の羽衣伝説にはどうも「南走平家」の女性、平家でなくてもヤマトから船で遭難して沖縄にたどりついた女性の姿を想像してしまいます。それと面白いことに伝説の天女の子孫が栄えて現存していてしっかり系図なども残っているということです。
南風原町(はえばるちょう)宮城公園にある天女の壁画
戦後はすぐに米軍に強制接収され基地の一部になったため半世紀もの間、立ち入ることができなかった銘苅地区ですが、いまこうして休日にはゆかりある伝説の場所を散策できることを幸せに思います。逆に米軍基地だったおかげで?開発せずに歴史的な緑地帯を残してくれたとも言われてます。
大道・真嘉比の超密集地域が遊び場だった幼い頃、緑の芝生が眩しい広々とした米軍住宅地を金網越しにみていたことはしっかり覚えています。そこが銘苅地域だったとはずいぶんあとになって知りましたが。
真和志中学時代、宿敵のライバル・安岡中学へ野球の練習試合に行くのに(真和志中学はグラウンドがほとんどなかった)、いまの環状2号線を大きく左まわりで歩いてよく出かけたものでした。
ところで…
銘苅天久地区はいまもむかしも北の国から移住してきた人たち(男女?)が出会う場所かもしれませんね。