「利交」と「素交」悩み多き者へ
悩み多きものに贈るひとづきあいの参考になるお話
「利交」と「素交」
「利交」とはいわゆる打算的な交際、何か求むるところのある交わりを「利交」と言います。生きていくための商業ビジネスでは当然ですが、意外にも地縁血縁関係、成人した親兄弟にもよくみられるようです。見返りを期待する損得勘定に基づいた交際です。
人間には対人関係においてそれぞれの銀行の通帳のようなものが存在しているようです。たとえば20年ぶりに同級生と逢ったとする。その顔を見るやいなや頭の中の[カン]ピュータもどきがはたらき彼と自分との関係をプラスマイナスを一瞬にしてはじき出します。
「あんなにしてあげたのに…」「いけない、あいつには借りがあった」…などと瞬時に思い出します。「利交」とは、プラスとマイナス、双方通行のバランス関係と考えればあながち悪いことではありません。
「文選」という古い書物の中に「絶交論」があり、5つに分けて説明しています。
1.「勢交」:勢力のある人と交わってゆく。
2.「賄交」:ある目的達成の手段に金品を贈って付き合う。
3.「談交」:話相手、イデオロギーで付き合う。
4.「窮交」:窮をまぎらす、同情などで付き合っていく。
5.「量交」:打算的に付き合うこと。
以上の5つはすべて利交です。
こういう交を早く絶つほうがよいというのが「絶交論」です。
「素交」
「素交」とは、素は白い生地という意味ですから、地位だの名誉だの、何だのといった、いわゆる為にするところのない交わり、人間そのものの自然な付き合い、一切の手段・修飾を取り去った裸の世界です。
その「素交」の中で一番知られているのが、「忘年の交」「忘形の交」です。ただし、世俗はこれをやや誤解し偏用しています。例えば忘年会ですが、忘年をその年のうさを晴らすことのように思っていますが、本来の忘年はそうではなくて、文字通り年を忘れることです。先輩・後輩の年齢の差を超越して心と心の付き合いをする、これが「忘年の交」だそうです。同様に「忘年の形」は、地位や身分などを忘れて交わることです。
気をつけなければいけなのは職場の上司の言う「今日は無礼講(交)だから」という言葉です。鵜のみにして羽目をはずし、まさに無礼を働くとあとで確実に人事査定に響きます。当然のことです。
「素交」とは、前述の損得勘定にもとづかない交際です。「素交」の背景に存在するのは愛情です。神様のような愛から人間愛、親子愛、男女の愛…さまざまな愛。それらは見返りを期待しないものです。
人間は「素交」を尊ぶ習性があるようです。
幼なじみ=沖縄語でいう「クビチリドゥシ」や同級生の関係もいたってシンプルなつきあいで「素交」といえます。同じ釜の飯を食った仲間、同期の桜…も損得勘定を抜きにした「素交」に分類されるでしょう。
神…たとえば太陽の神は、毎日膨大なエネルギーを我々に提供してくださるが、けっして請求書をよこしません。無償です。母親の子どもに対する愛情も同様、本来は見返りなど求めないものですね。身を呈して捧げる大きな愛なのです。しかし、親子における一方通行の「素交」は、時として重荷になることもないとはいえません。
「利交」と「素交」どちらも大切。
使い分けはもっと大切でしょう。
追加:政治の世界は基本「利交」です。
権力者のうそは日常。
戦争への道はどこの国でも政権与党の
「大うそ」からはじまります。
気をつけよう。
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