2007年11月23日
上り口説を往く5)
3. 美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の行くも帰るも中之橋
(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ
ゆくんかゐるんなかぬはし)
美栄地高橋(みいじたかはし)は 美栄橋
首里を出発した「上り口説一行」は、崇元寺から長虹堤を通り美栄橋へ向かう。途中に十貫瀬(じっかんじ)があり、袖を連ねて当時の高橋を渡りいよいよ那覇の港へと近づく。
十貫瀬(元ダイエー那覇店向かい駐車場の北方付近)の青空
第一尚氏五代王・ 尚金福の時代(1450〜1453年)当時、那覇と首里の間は海で隔てられて、冊封使来琉の際には、那覇の港から船を並べて橋代わりとするなど不便であった。1451年尚金福が国相・ 懐機(かいき)に命じて約1キロの海中道路を開通させた。
長虹堤(ちょうこうてい)と呼ばれる現代版レインボーブリッジである。現在の崇元寺橋から松山一丁目あたりまで続いていた。これにより首里と那覇の往き来が便利になり、さらに次第に長虹堤周辺に土砂がたまり、逐次埋め立てられるうちに現国際通り〜久茂地付近の那覇ができあがっていく。
葛飾北斎『琉球八景』の1 枚『長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)』より
モノレール「美栄橋駅」前にある古い石碑がある。新修美栄橋碑という。この碑の由来を、現地にあった説明文から見てみる。
「いにしえの那覇は浮島と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便だった。そこで尚金福王は、1452(景泰3)年、冊封使を迎えるにあたり、国相・ 懐機(かいき)に命じて崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目タマキ屋米店駐車場付近)に至る約1kmの「長虹堤」という海中道路を築かせた。「長虹堤」には3つの橋が架けられたといわれ、美栄橋はそのうちの一つ。那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまう。そのため、川を浚(さら)え、橋を架け替えることになり、1735(康正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工した」
新修美栄橋碑にはその経緯を記してある。その後美栄橋は1892年(明治25年)に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし碑だけは原形を留め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。
新修美栄橋碑
(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ
ゆくんかゐるんなかぬはし)
美栄地高橋(みいじたかはし)は 美栄橋
首里を出発した「上り口説一行」は、崇元寺から長虹堤を通り美栄橋へ向かう。途中に十貫瀬(じっかんじ)があり、袖を連ねて当時の高橋を渡りいよいよ那覇の港へと近づく。
十貫瀬(元ダイエー那覇店向かい駐車場の北方付近)の青空
第一尚氏五代王・ 尚金福の時代(1450〜1453年)当時、那覇と首里の間は海で隔てられて、冊封使来琉の際には、那覇の港から船を並べて橋代わりとするなど不便であった。1451年尚金福が国相・ 懐機(かいき)に命じて約1キロの海中道路を開通させた。
長虹堤(ちょうこうてい)と呼ばれる現代版レインボーブリッジである。現在の崇元寺橋から松山一丁目あたりまで続いていた。これにより首里と那覇の往き来が便利になり、さらに次第に長虹堤周辺に土砂がたまり、逐次埋め立てられるうちに現国際通り〜久茂地付近の那覇ができあがっていく。
葛飾北斎『琉球八景』の1 枚『長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)』より
モノレール「美栄橋駅」前にある古い石碑がある。新修美栄橋碑という。この碑の由来を、現地にあった説明文から見てみる。
「いにしえの那覇は浮島と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便だった。そこで尚金福王は、1452(景泰3)年、冊封使を迎えるにあたり、国相・ 懐機(かいき)に命じて崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目タマキ屋米店駐車場付近)に至る約1kmの「長虹堤」という海中道路を築かせた。「長虹堤」には3つの橋が架けられたといわれ、美栄橋はそのうちの一つ。那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまう。そのため、川を浚(さら)え、橋を架け替えることになり、1735(康正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工した」
新修美栄橋碑にはその経緯を記してある。その後美栄橋は1892年(明治25年)に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし碑だけは原形を留め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。
新修美栄橋碑
Posted by 砂川よしひろ at 18:15│Comments(1)
│ 上り口説を往く
この記事へのコメント
…すごい…葛飾北斎の「琉球八景」って あったんですね…知りませんでした…ありがとうございました。
Posted by たるぅ at 2007年11月24日 17:05